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三澤総領事夫妻、明治会、ハワイ日系人連合協会、日米協会、海上自衛隊、陸上自衛隊、国誠流の詩吟の会、木曜午餐会などの方々が参列。

 

 終戦記念日の8月15日、マキキ・セメタリー(墓地)の一角にあるマキキ日本海軍墓地で、夏の“盆法要供養”が執り行われた。  

 ここは海外にある日本人墓地としては最古のもの。1868年(明治元年)にハワイに移民した、元年者と呼ばれる最初の日本人移民を祀る、“明治元年渡航者之碑”がある墓地だ。  

 また、それを遡る1860年(万永元年)、日米修好条約を推進するための使節団の海軍護衛艦が、帰国の折にハワイに寄港し、以後も往来を重ねた。旧海軍の隊員の多くは無事に帰国したが、中には任務半ばにして病に倒れた兵士もおり、霊は海軍墓地の“鎮魂”の碑の元に祀られている。旧海軍は寄港の折、ハワイに暮らす邦人の権益を守る手助けをしたり、日本とハワイの親善を尽くしたりしてきた歴史もある。その伝統は現在の海上自衛隊にも引き継がれ、練習艦隊や潜水艦、航空部隊などが年5〜6回ハワイに寄港する際には必ず、この海軍墓地で献花、参拝している。  

 一時は荒廃していた墓地をきれいに整えて守るのは、1958年に発足した“明治会”だ。明治から続く移民の歴史や、明治の心を次世代に伝えるための集まりで、現在の会長は早瀬登氏。87歳の御高齢ながら、今も月に一回、カイルアの自宅からバスを乗り継いで、墓地の清掃や管理、供養に通い続けている。

明治会会長の早瀬登氏。87歳の今も月に一回、カイルアからバスを乗り継いで墓地の供養と清掃を続ける。

 

 この日の法要の挨拶では、 「元年者の移民から数えて、来年は150周年の節目の年にあたり、明治会も設立60周年です。昨年末には安倍晋三総理も献花に訪れてくださり、今回の新内閣の閣僚のうち、鈴木修一大臣、小野寺五典大臣、松山政司大臣も来てくださっています。これからも先祖のお墓を大切に守ってゆきます」  

 と話した。

贈られた千羽鶴は明治会が大切に保存し、供養のたびに飾っている。 

 

 お盆供養の法要には、ハワイ明治会名誉会長の三澤康総領事も夫妻で出席。少年時代の夏の思い出を、領事自身が日本語と英語で以下のように語り、心温まる法要のスピーチとされた。

「夏は、学校で一番長い夏休みがあるから大好きでした。最初の2週間くらいはすべてを忘れて好きなだけ外で遊んだり、高校野球を観て応援したり。永遠に続いて欲しいハッピイデイズでした。  けれど夏休みの後半、8月に入ると広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして終戦記念日が来るんです。宿題も残ったままで、子ども心にも重苦しいんですね。熱狂のるつぼの甲子園も、8月15日の12時になるとサイレンが鳴り、グラウンドの球児も、5万5千人の観客も一斉に静まり返り、黙祷するんです。   

 私の父は学徒出陣でフィリピンへ行き、ベトナムで終戦を迎えました。母は終戦の1カ月ちょっと前、空襲で家を焼かれ、戦後は食べる物がなくてひもじい思いをしたそうです。  

 皆さんのご親族の戦争の思い出は、いかがでしたでしょうか。日本全国が悲惨でした。沖縄は悲劇でした。ハワイでも日系アメリカ人が危険な戦地に送り出され、イタリアやドイツで大勢戦死されました。  

 私にとって8月15日は、戦死された方、辛く大変な思いをされた方々に深く思いを馳せる日です」

 法要はハワイ天台宗、ハワイ東本願寺の僧侶が合同で読経後、全員が焼香。詩吟の、国誠流の会の有志が献吟して、つつがなく閉会した。  

 集合写真を撮って散会後、海上自衛隊の連絡官としてハワイに駐在している、大屋秀樹氏のそばに三澤領事が来られて、 「鎮魂碑の横にある、荒川又十郎という銘を知っていますか?」  

 と、ニコニコと問いかけ。いえ、知りませんと直立する大屋さんに、 「明治9年、海軍ができたばかりの頃の水夫だったようですね。右に並んでいる兵士は、航海中に当時の流行り病だった“カッケ”で亡くなった人達だそうですよ。航海も今と違って命がけだったのでしょうねえ」と、さりげなく偲んでいた。

大屋「勉強不足ですみません」、三澤「ちょっとね、海軍史を読んでみたんですよ(笑)」。カッケで亡くなった水兵さん達の名前が連なる墓標もある。

(取材・文 奥山夏実)