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アイリーン夫人と

 

アメリカの政治リーダーの一人であり、第二次世界大戦時の伝説的活躍で知られるダニエル・K・イノウエ上院議員(88)は、2012年12月17日、呼吸器合併症のために死去しました。イノウエ議員は上院で最も古参の議員として、大統領継承順位第3位の高位である上院仮議長に選出され、亡くなるまで同職にありました。  

ハワイ最初の上院議員であり、アメリカで最初の日系人上・下院議員として50年以上に渡って活躍してきたイノウエ議員の軌跡をたどります。

 

 

生い立ち

1924年9月7日ホノルルのクイーン・エマ・ストリートの自宅で生まれたダニエル・ケン・イノウエは、マッカリー・モイリイリ地域で成長しました。当時、この周辺は貧しい労働者階級の日系アメリカ人が多く住んでいました。  

イノウエ氏の父・兵太郎は、幼い頃にカウアイ島のサトウキビプランテーションで仕事を得た両親と共に移住しました。一家は借金を返済するまでハワイで働き、その後は日本に戻るつもりでしたが、結局そのままハワイに留まることになりました。  

イノウエ氏の母・かめは、マウイ島で日本人の両親から生まれ、幼い頃に両親を亡くし、ハワイアンの家族の下で育てられ、後にメソジスト教会の施設に移りました。兵太郎とかめは教会で知り合い結婚。ダニエル・ケン・イノウエは、4人兄弟の長男として生まれました。  

一家は決して裕福ではありませんでしたが、食べるのに事欠くということはなかったようです。父は宝石店で熱心に働いており、貧しさを気にする暇もなかったそうです。  

ダニエル少年は家で日本語を学び、放課後は日本人学校にも通っていました。しかし自分のことは第一にアメリカ人であると考え、アメリカの革命的な歴史や建国の父たちの民主主義の理想について学びました。  

医師になることを志していたたため、アメリカ赤十字からファースト・エイドのクラスを受講したこともありました。しかし、1941年12月7日、日本軍がオアフ島の空を埋め尽くした後に見たことに対して、心の準備ができていないことに気がつきました。  

ルナリロ・スクールのエイド・ステーションを手伝うことを求める赤十字の連絡により、イノウエ氏は真珠湾攻撃で被害を受けた民間人の手当てに従事することになりました。  

日本人の奇襲攻撃が、イノウエ氏の人生を大きく変えました。また、この攻撃により、アメリカ全土で日本人に対する人種差別が高まり、多人種で構成されているハワイ準州も例外ではありませんでした。日系アメリカ人がどんなに日本軍とドイツ軍と戦ったとして、犠牲を払ったとしても、日系人を卑下する人は存在するだろうとイノウエ氏は思いました。  

その時、日系二世は軍に入隊することを認められていなかったので、イノウエ氏はハワイ大学マノア校のプレメディカルコースに進学することにしました。  

1943年、フランクリン・ルーズベルト大統領が二世の従軍に同意。「アメリカ人の精神とは、マインドとハートの問題だ」と語りかけられたような気持ちだったとイノウエ氏は語っています。実際、ルーズベルト大統領は「アメリカ人とは、人種や祖先の問題ではない」と述べています。  

赤十字での経験があったため、イノウエ氏は陸軍への入隊はすぐに考慮してもらえませんでした。しかし、とても熱心に愛国心を示そうとしてエイド・ステーションを辞め、ハワイでは最後の選択肢だった第442連隊戦闘団に志願しました。  

メインランドでの基礎訓練を受けるためにハワイを発つ前に、父は短いアドバイスを与えています。

「家族に不名誉をもたらすな」

 

“GO FOR BROKE” 第442連隊の英雄

イノウエ氏は軍曹としてヨーロッパに派兵となり、イタリア、フランス、イタリアと転戦した後に、二世兵として最初に少尉に昇進しました。  

勇敢さで名を馳せた第442連隊のモットーは「GO FOR BROKE」。同じく日系人部隊である第100歩兵大隊と共に、アメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた部隊となりました。  

イノウエ軍曹が右腕を失った戦闘について、「アメリカンズ:ストーリー・オブ・第442連隊戦闘団」には下記のように記されています。  

「イノウエは稜線を這い上がり、ドイツ軍の機関銃基地に2発の手榴弾を投げ入れた。そしてトムソン式軽機関銃を手に立ち上がり、腹部を撃たれる前にもう一つの機関銃基地に銃射を浴びせた。彼は敵の狙撃兵に右腕を打ち砕かれるまで、銃に弾丸を込め続けた。 」 

 

 

イノウエ軍曹はそれでも銃撃を続け、右足を撃たれて丘陵地に倒れるまで攻撃し続けました。この戦闘から数日後、イタリアでの戦闘は終結し、2週間後にドイツ軍は降伏したのです。  

イノウエ軍曹は少尉に昇進し、除隊になる前に大尉に昇進となりました。アメリカ軍最高位の名誉勲章の候補にもノミネートされましたが、この時は殊勲十字章、ブロンズスター章、パープルハート章などが授与されました。その後功績が見直され、名誉勲章への昇進を受けています。

 

政治の道へ

戦後ハワイの社会には目まぐるしい変化が生じます。日系人はハワイで3番目の人口を占め、二世の退役軍人たちは、自分たちが政治家としてのポテンシャルを秘めていることに気付きます。  

イノウエ氏はGIビルによりハワイ大学に進学。法律を学びながら、法廷ではなく政治を焦点に置いていました。この頃にハワイ大学のスピーチインストラクターで、コロンビア大学で修士号を取得していたマーガレット・シノブ・アワムラと出会い、2度目のデートで結婚を申し込みました。  

ハワイ大学を卒業すると、ジョージ・ワシントン大学のロースクールに進学。この大学はホワイトハウスからわずか数ブロックでした。  

夫婦でハワイに戻り、弁護士試験に合格すると、ホノルル市の検察官に任命されました。イノウエ氏はワシントンとハワイですでに民主党のボランティアを務めたことがあり、戦中から日系アメリカ人の権利のために尽力し、後にハワイ州知事となったジョン・A・バーンズに師事していました。1954年、ジョン・A・バーンズの勧めでハワイ準州の下院議員に立候補することになりました。

それまでハワイでは共和党が多数を占めていましたが、この頃から民主党へのシフトが始まります。後に国会上院議員となったスパーク・マツナガ氏や、ハワイ州知事となったジョージ・アリヨシ氏も台頭してきました。  

イノウエ氏は1958年にハワイ準州上院に選出。1959年にハワイはアメリカ50番目の州となります。その直後の特別選挙で、国会上院に出馬しようとしますが、結局国会下院に出馬し、アメリカ初の日系人下院議員となりました。  

1962年、国会上院に出馬し、69パーセントという驚異的な得票率で見事当選。アメリカ初の日系人の上院議員に就任しました。 1968 年、シカゴで開催された民主党全国大会では、基調演説を行い注目を集めました。

 

 

政治家としての活躍

イノウエ氏は誠実さと知性によって上院で敬意を集めるようになり、ウォーターゲート事件を調査するために組織された特別委員会の7人のメンバーに選出されました。1970年代初頭にニクソン政権を巻き込んだこのスキャンダルは、アメリカだけでなく世界中で取り上げられ、イノウエ上院議員は世界中から注目を浴びました。ニクソン政権は世論の大反発を受け、アメリカ史上初めて現役大統領が任期中に辞任に追い込まれるという事態となりました。  

世界的な名声は1970・80年代にピークを迎え、副大統領への可能性も高いと見られていましたが、イノウエ上院議員自身は上院議員以上の地位については常に否定していました。ハワイという小さな州の代表として重要な役割を果たしているという意識も常に持っていました。  

しかし、イノウエ上院議員は上院議長から再び政治的に非常に難しい任務に抜擢され、イラン・コントラ事件を調査するために特別に組織された委員会で委員長を務めることになりました。レーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアのゲリラの援助に流用していたというこの事件は、1986年に発覚し、世界を巻き込む大スキャンダルに発展しました。  

ウォーターゲート事件と同様に、イラン・コントラ事件の公聴会の様子は世界中にテレビ中継され、イノウエ上院議員は脚光を浴びることになります。

 

 

ハワイへの貢献

ハワイが州に昇格した直後に国会下院議員となり、国会上院の最長老議員となるまでの50年以上のキャリアの中で、イノウエ上院議員はハワイが予算作成において不当に扱われるべきではないと考え、常に戦ってきました。  

砂糖やパイナップル産業の維持、輸送のためにハイウェイや空港、港の整備、イーストウェストセンターやハワイ大学のサポートなど、ハワイの産業の発展に努めてきました。太平洋の真ん中に浮かぶハワイという特別な場所の利点を活かし、とりわけ軍事産業に力を入れ、軍事産業は観光と並んでハワイの経済基盤となりました。  

また、ハワイの福祉制度の整備や、人権の尊重、先住民の文化の保護などのために、政府の方針を変えることにも尽力してきました。  

例えば、労働時間が週20時間以上の従業員には会社が保険を負担しなければならないという法令を1974年に制定しました。また、ホノルルとウィンドワードをつなぐH3の建設のために、政府の環境に関する法律から例外を勝ち取りました。ハワイアンの文化を保存するため、カホオラヴェ島の返還にも働きかけました。ハワイでのクルーズ船の運航にも大きな役割を果たしています。カリフォルニア州ロサンゼルスの全米日系人博物館の理事長も務めました。  

アメリカ先住民問題委員会では委員長に就任し、今まで不当な扱いを受けてきた先住民が自治権を獲得するために情熱を持って取り組みました。  

ダニエル・アカカ上院議員やハワイの民主党議員と協力し、ハワイ王国の転覆に関して策謀が働いたことをアメリカ政府が公式に認め、先住民であり王国を構成していたハワイアンに正式に謝罪した謝罪法案(クリントン政権)の成立も果たしました。

 

 

 

アカカ上院議員が想起したネイティブ・ハワイアンの自治を認める法案(通称アカカ・ビル)の成立にも全面的にサポートしてきました。

 

<年表>

1924  9月7日ダニエル・ケン・イノウエ、ホノルルで生まれる。
1941  12月7日の真珠湾攻撃の際、医療ボランティアとして従事する。
1942  マッキンレー高校を卒業 ●陸軍に志願し、日系人部隊として名高い第442連隊戦闘団に配属される。
1943  ダニエル・イノウエ軍曹は、アメリカ北方陸軍(the U.S. Fifth Army)と共にローマ・アルノ作戦に参加し、3ヶ月近く続いた過酷な戦闘を乗り越えた。任務 の初期、イノウエ軍曹は「Go for broke」の合言葉で知られる日系人部隊で極めて優秀なパトロールリーダーとしての地位を確立する。 
1944  イノウエ軍曹の部隊はフランスのボージュ山脈に送られ、ドイツ軍に包囲されたテキサス大隊を救出するために2週間に渡る死闘を繰り広げた。「失われた大隊」を救出したこの戦闘は、アメリカ陸軍の十大戦闘に数えられている。イノウエ軍曹は小隊長に昇進し、ブロンズスターメダルを受賞。
1945  イタリアに戻り、終戦の数ヶ月前、防御を固められた稜線で442部隊は激しい攻撃を行う。イノウエ少尉は後ろから現われた敵に腹部を撃たれ、危うく背骨を失うところだった。それでも小隊を前進させ、単独で機関銃の方向に向かった。イノウエ少尉は至近距離からドイツ軍の狙撃を受け、右腕が粉砕される前に、2発の手榴弾を投じて機関銃に壊滅的なダメージを与えることに成功した。最後の手榴弾を左手で投げ、サブマシンガンで攻撃したが、最後は足を撃たれて倒れた。 
1947  右腕を失った後、ミシガン州バトルクリークの陸軍病院で20ヶ月を過ごす。大尉として名誉除隊、ハワイに戻る。米軍第2位の勲章である殊勲十字章の他、ブロンズスター章、パープルハート章など12の勲章と表彰を受ける。
1950  GIビルにより政治学の学位を取得してハワイ大学を卒業。 
1952  ジョージ・ワシントン大学ロースクールでJ.D.学位を取得。
1953  弁護士の資格を取得しホノルルで活動を始める。1953年から54年までホノルル市の副検察官を務める。 
1954  ハワイ準州議会の下院議員に選出され、議長を務める。
1958  ハワイ準州議会の上院議員に選出される。
1959  8月21日にハワイがアメリカ50番目の州となった後、ハワイ最初の国会下院議員に選出される。アメリカで初めての日系下院議員となる。
1960  国会下院議員に再選。  
1962  国会上院議員に選出され、アメリカ初の日系上院議員となる。
1963  アメリカ合衆国上院軍事委員会で議院を務める。(1963-71)
1964  7月14日、長男ダニエル・ケン・イノウエ・ジュニア誕生。
1968  民主党全国大会で基調演説を行い、人種の理解と民主党の進歩的な変化を訴えた。
1969  防衛協力小委員会でチェアマンを務める。商業・科学・交通委員会メンバー。
1971  上院歳出委員会に指名される。
1973  上院ウォーターゲート調査特別委員会のメンバーに。(1973-1974)
1974  国会上院議員に3期目の再選。
1976  上院諜報活動特別委員会の第一チェアマンに指名される。(メンバー1976-1984)
1978  民主党運営委員会(1978-88)上院民主党委員会(1978-88) 
1979  1979年1月から1988年まで民主党上院議員の中で第3位の地位を務める。
1980  国会上院議員に4期目の再選。議事規則運営委員会委員長 
1984  中米政策に関するアメリカの方針を審議するため、上院民主党中米諮問委員会に就任。また、アメリカ超党派委員会のシニアカウンセラーも務める。
1986  国会上院議員に5期目の再選。
1987  イラン・コントラ事件の上院調査特別委員会委員長に1月に指名される。イラン・コントラ事件の公聴会が5月から8月にかけて行われた。商業・科学・交通委員会委員長に就任。 
1989  民主党運営委員会委員長に任命される。アメリカ先住民問題委員会委員長に就任。(1989-94) 
1991  民主党運営委員会委員長に就任。国会上院議員に6期目の再選。
1998  国会上院議員に7期目の再選。
2000  6月、第二次世界大戦に従軍したアジア系アメリカ人22名と共に、軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章。陸軍殊勲十字章、ブロンズスター章の受理理由が見直され、昇進されることとなった。 
2001  アメリカ先住民問題委員会委員長に就任。(2001-03)
2003 ミシガン州バトルクリークの元陸軍病院が、「ハート・ドール・イノウエ・フェデラルセンター」と改名される。
2004 国会上院に8期目の再選。
2006 3月13日、妻マーガレット死去。
2008 5月24日、アイリーン・ヒラノと再婚。
2009 1月3日、予算委員会委員長に任命。
2010 4月20日、長男夫妻に子供が生まれ、祖父となる。国会上院議員に9期連続再選を果たす。
2011 6月18日、日本政府から桐花大綬章(とうかだいじゅしょう)を受賞。アメリカ人として7人目の受賞者となる。
2012 12月17日午後5時1分(EST)ウォルター・リード・ナショナル・ミリタリー・メディカルセンターで死去。最後の言葉は「アロハ」だった。                 
2017 ホノルル国際空港が、「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と改名される。

 

ハワイに尽力したヒーローへ…ダニエル・イノウエに捧げるトリビュート

ハワイのみならず、アメリカの国政にも大きな影響を残したダニエル・K・イノウエ氏へ… 偉大な足跡への賞賛と哀悼の言葉を集めました。

 

バラク・オバマ大統領(2012 年当時)

我が国は真のヒーローを失った。アメリカ議会史上2番目に長く議員を務めたダニーは、ハワイがアメリカ50番目の州になった瞬間から、議会でハワイの人々を代表してきました。ワシントンでは、軍を強化し、2党のコンセンサスを築き、我々政府は私たちを選出してくれた市民に対して責任を果たしてきました。  

第二次世界大戦時、英雄的な貢献によって腕を失ったことは、驚くべき勇敢さを表しています。この活躍により名誉勲章を授かったダニーは、単なる同僚や師ではなく、幸運にも彼を知ることができた私たち全員が敬愛する人物となったのです。

 

ヒラリー・ローダム・クリントン国務長官(2012年当時)

どんなバリヤーが目の前にあろうとも、ダニーはそれを打ち砕いてきました。彼はアメリカ史上もっとも高位に位置づけられているアジア系の政治家であり、国会上院・下院初の日系人でした。彼は兵士であり、名誉勲章の受章者であり、そして英雄でした。しかし、彼は謙虚さと思いやりを忘れたことはありません。  

アメリカ全土において、市民権を奪われた人やマイノリティ、女性にとって、疲れを知らない代弁者でもありました。彼が輝く未来のために人生を費やしてきたおかげで、私たちはより良い生活を送ることができたのです。

 

メイジー・ヒロノ国会上院議員 (ハワイ州民主党)


彼の経歴がすべてを物語っています。偉大な功績にも関わらず、ダニエル・イノウエは自分の出身地を決して忘れませんでした。彼の重要性、実績、名誉は、ハワイに強く根付いています。彼は誠実さと2党性を持ってアメリカのビジョンに従事してきました。

 

ダニエル・アカカ国会上院議員(ハワイ州民主党)(2012年当時)

 

良き友人であり、同僚であり、兄弟だったダン・イノウエに別れのアロハを告げるのは、私にとって誠に難しいことです。イノウエは真の愛国者で、アメリカのヒーローでした。彼の遺産は残された愛する家族だけでなく、ハワイのあらゆる道や、保護されたあらゆる自然に、ハワイをより安全にするために設けられたあらゆるファシリティに見ることができます。  

彼は決して匹敵するもののない業績のリストを置いて立ち去りました。ハワイのすべての子供たちが、ダニエル・イノウエについて学ぶことでしょう。私たちの島を永遠に変えた人物について。

 

ニール・アバクロンビー ハワイ州知事(2012年当時)


イノウエ上院議員は全てを捧げてくれました。彼は ”Go for Broke” の本当の意味を知っていました。彼は私たちに名誉の遺産を残し、ハワイの人々に、アメリカ国民に尽くしてくれました。彼に匹敵する人物はいません。イノウエ上院議員は最近、私たちに愛と慈しみをはっきりと示してくれました。

「私はハワイの人々とアメリカ国民の代弁者として、真心と能力のベストを尽くしてきました。私が取り組んできたことはOKだったと思います」と彼は言いました。私たち全員が、彼の偉業を「OK」だと思っていると私は確信しています。私たちの責任は、単に遺産を引き継ぐだけでなく、ハワイへの完全な献身を受け継がねばなりません。

 

 

 

参考:Honolulu Star Advertiser、http://www.inouye.senate.gov、Wikipedia