大学時代、私は4年間を神戸の東灘区で過ごした。海と山に囲まれ、上品でオシャレで洗練された街並、空気感。卒業してもう、20年がたってしまったけれど、未だに神戸は特別な街。そしてふとした時に、無性に、「帰りたく」なる場所でもある。 先日、高松から伊勢神宮へのお参りに行く途中、思い立って当時バイトをしていた阪神青木(おおぎ)駅前の焼き鳥屋さん、「とりみち」に寄ってみることにした。
とりみちのマスターと奥さんは、私の両親と年がほぼ同じなこともあり、大学時代、私は奥さんの事を「お母さん」と呼んで、実の母のように慕っていた。私がハワイ、NYに住むようになってからは、なかなか神戸まで二人に会いに行けず、今回、約5年振りの再会を果たした。カウンターで二人と話をしていると、気がついたら横にいた常連さんも会話に加わっていた。このアットホームな感じは、当時のままだ。そして、話題は阪神・淡路大震災へ。マスターとお母さんは震災に合い、裸足とパジャマで子どもを連れて逃げ、身一つ命だけは助かった。しかし、家もお店も同時に火災ですべてを一夜にして無くしてしまった。しかし、泣いてばかりもいられない!と、再起をかけてまたお店をつくって頑張ろうと決心され、新生、焼き鳥とりみちが誕生した。
私がバイトに入ったのはオープンして間もなくの頃。いつも利用している駅前で、震災の数ヶ月後から小さなトラックで、たこ焼きを販売する一人のおじさんが現れた。私は妙にそのおじさんのたこ焼きが気になり、何度か買うようになった。そんなある日、おじさんが、「友人が、焼き鳥屋さんでバイト探してるけど、興味ある?」と声をかけてきた。ご縁とは本当に不思議だ。おじさんの一言で、一生の付き合いをするお二人に出逢うことができたのだから。
ずいぶんと後になって分かった事は、実はこのおじさん、元、高級寿司店の店主だったそうだ。彼もまた震災ですべてを無くしたひとりで、なんとか、生き抜く為に移動販売のたこ焼き屋さんを思いつき、行動に移したそうだ。当時、19歳だったわたしが震災後に目撃した周りの大人たちには、何があってもたくましく生きていく、そんな大人の力強い生き様を見せて頂いた。
ある日のバイト中、とりみちのお母さんが言った一言を私は今でも鮮明に思い出す。「チズちゃん、私達は震災で命以外のすべてをなくした。でもね、モノは無くなるけれど、経験や身に付いた知識は一生消えんのよ。人間、どんな事があっても、やっていける! だから、これからたくさん自分で色んな経験して、勉強もして、自分をしっかりつくっていきなさいよ」
この言葉にいつも私は背中を押して貰っている。
(日刊サン 2018.02.21)
大森 千寿
香川県生まれ。一人っ子。8才の時に韓国ホームステイを経験。12才の夏休みはオレゴン州にホームステイ。16才でオレゴン州のハイスクールに1年間留学。2003年自分探しで訪れたNYで運命の人と出逢い国際結婚。2010年ハワイにホテルコンドミニアムを購入したことがきっかけとなり、ハワイで過ごす時間が増える。現在はアーティストで夫のアダムウェストンのマネージメントをしながらハワイ、NY、日本を拠点に活動中。