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鎮魂から復興へ…大和田新氏インタビュー Vol.3

大和田新(あらた)
1955年3月28日生まれ。奥様、長男、長女の仲良し4人家族。元ラジオ福島アナウンサー、編成局長。現在はフリーアナウンサー。

著作:今年9月『大和田ノート 伝えることの大切さ、伝わることの素晴らしさ』を上梓の予定。

座右の銘:「明日できることは、今日しない」。今日できることは今日一生懸命、全力でやろうということ。「ハワイの人はのんびりしているし、あした? どうやって遊ぼうかな、なんて考るんじゃないですか。楽しいですね、毎日が! 『明日できることは、今日しない』は、ハワイの人にぴったりかも」と、冗談も。

 

今、福島から伝えることの大切さ

大和田さんは言う。「マスコミは、3月11になると必ず2年目の節目、3年目の節目と“節目”という言葉を使う。だが被災者に“節目”などありません。被災者にとって、ましてや未だに行方不明になって、遺体も見からない遺族の方にとっては毎日が3月11日なのです」(写真は大和田氏提供)

 

(インタビュアー:松尾 實直/日刊サン2016年8月16日)

 

家族を亡くした者にそんなこと聞いて恥ずかしくないのですか

―大和田さんの今までの人生の中で最も苦しかったこと、辛かったことをお聞かせ下さい。

 

大和田 毎年3月11日になると、今年は震災から1年目です、2年目です、5年目の節目を迎えましたなどと報道する。これで被災者と向き合っていると思うのは報道の思い上がりなんですね。  

震災の年の6月10日。今でも忘れない。長野県の諏訪中央病院の名誉院長の鎌田實先生という方がいらっしゃって、その先生の友達のさだまさしさんとチャリティで南相馬の体育館に支援に来てくださったんです。  

600人のところが1200人も来てくれて、1時間の中で歌ったのは1曲。あとは面白いおしゃべりだったのですが、それが終わってから、来られていた50代の主婦の方に、明日は6月11日、震災からちょうど3カ月ですね。今、どんなお気持ですか? と聞くと、ムッとされたのです。  

「私は、津波で家を流され、家族も2人流され、1人はまだ行方不明です。そんな私たちに3カ月なんて節目があるのですか。あなた方マスコミはそうやって節目を作りたがる。だけど、私たち家族を亡くし家を無くした者にとって節目なんかないんです。あなた、そんなこと聞いて恥ずかしくないんですか!」と詰め寄られました。これが震災から3カ月目。このとき、私は心から恥じ入りました。  

お子様を亡くしたお父さん、お母さんにとっては毎日が3月11日なんです。毎日、朝起きて、助けられなかった家族や子供たちの遺影に向かって、「ごめんね、ごめんね。助けられなくってごめんね」って、毎日謝るのです。だから3月11日は命日かもしれないが、節目ではない。特に行方不明になっている家族がいる人は、毎日が3月11日なんです。それを「節目」だなんていうのはメディアだけなんです。  

確かに報道で、震災から何日間経過したというのは実は大切です。でも、被災者にとっては毎日が3月11日であり、節目なんかなく、取材することそのものも被災者の悲しみを逆撫でするのです。

福島県南相馬市萱浜。宗派を超えて祈り続けられている

 

人はいつか必ず、 「卒哭忌」を迎えるのです

被災者のことを思うと、もう取材はできない。放送局にいること自体が自分には無理、ダメだ。もう会社を辞めよう。そう本気で思いました。そして私の友人の曹洞宗の住職、阿部光裕(こうゆう)という人を訪ね、この話をいたしました。私は、もうマイクを持って被災者の前に立てなくなった。被災者の地にも行けなくなった。もう限界だ、と訴えたのです。  

そうすると彼は、黙って「卒哭忌(そっこくき)」と、3文字を書いたのです。  

これは仏教の世界では百箇日という意味だそうです。どんなに辛い、悲しいことがあっても、泣き叫ぶことを卒業する日、と言うのです。そして、亡くなった人の分も含めて、よし、生きていこうと決意する日と言うのです。これが「卒哭忌」であり、そのために百箇日の法要を行う。百箇日法要は誰のためにやるのかというと、遺族のためにやるものなのです。今日がひとつの節目ですよ。今日で泣くのはやめなさい。あなたは亡くなった人の分まで生きていくのですよ、と。  

まさに震災から3カ月、百箇日前後でした。彼は言います。確かに百箇日で悲しみを乗り越えることができない遺族の方もいらっしゃる。でも人はいつかは「卒哭忌」を迎える。誰しもが必ず迎える。そう言って、だからお前も頑張れ、と励ましてくれたのです。  

この言葉で我に返りました。私にとってこの日が「卒哭忌」になったのです。

 

 

(つづく)