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鎮魂から復興へ…大和田新氏インタビュー Vol.1

福島県南相馬市萱浜。宗派を超えて祈り続けられている

 

今、福島から伝えることの大切さ

日本各地はもとよりニューヨーク、パリなど世界に向かって東北大震災の悲惨、悲しみ、そして家族愛を伝えるフリーアナウンサーの大和田新さん。今回ホノルルで2度の講演を行い、「福島の今」をハワイに伝えた。  

その大和田新さんに日刊サンがインタビューさせていただきました。(写真は大和田氏提供)

 

(インタビュアー:松尾 實直/日刊サン2016年8月16日)

 

大和田新(あらた)
1955年3月28日生まれ。奥様、長男、長女の仲良し4人家族。元ラジオ福島アナウンサー、編成局長。現在はフリーアナウンサー。

著作:今年9月『大和田ノート 伝えることの大切さ、伝わることの素晴らしさ』を上梓の予定。

座右の銘:「明日できることは、今日しない」。今日できることは今日一生懸命、全力でやろうということ。「ハワイの人はのんびりしているし、あした? どうやって遊ぼうかな、なんて考るんじゃないですか。楽しいですね、毎日が! 『明日できることは、今日しない』は、ハワイの人にぴったりかも」と、冗談も。

 

真っ暗な地下3階 450人が恐怖の地鳴り声を上げた

―2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生したとき、大和田さんはどこで何をされていたのでしょうか。

 

大和田 その瞬間は、福島では有名な飯坂温泉・ホテル聚楽地下3階の大広間で歌謡ショーの司会をしておりました。65歳以上のお年寄り450人がいらっしゃったのですが、地震の瞬間は、「ウォー」という地鳴りに似た恐怖のどよめきが上がりました。  

全国どの放送局でも震災時のマニュアルはみな同じ。「どんなに大きな地震でも1分以内に揺れは収まります」とアナウンスしなさいと書いてある。私もマイクを持って、マニュアル通り「どんなに大きな地震でも1分以内に揺れは収まります。上から落ちてくるものがありますので机の下に入るなどして頭を守ってください」と、心を落ち着けて何度も何度もアナウンスし続けました。  

だが、あの本震は1分を超えて2分40秒揺れた。  

1分半経つと電気が消え、地下3階は真っ暗闇になった。激しく揺れ続ける中で天井からシャンデリアのガラスの破片が落ちてくる。皆さん、恐怖でもう声も出ない。マイクも停電で使えなくなった。でも、揺れはますます激しくなる。 体育館のような広さの中で、アナウンサーの本能でしょうか、私はありったけの声を出して、「皆さん、まもなく揺れは収まります。頭を守ってください!」と叫び続けました。後の話ですが、ありがたいことに「あの声に励まされた」とのお客様の声も多くいただきました。

 

20人の遺体が 海岸に打ち上がっている!

この後、津波が来るのですが、海から60キロメートルも離れた飯塚温泉では大津波を想像できなかった。しかも、この2日前に震度5弱の地震があり、30センチメートルの津波がきていることを放送していたのです。この経験が頭に残り、津波は来てもせいぜい1メートル、津波注意報くらいかなと思ったのが悔やまれます。  

この上なく長い2分40秒の揺れがようやく収まりました。450人全員の無事を見届け、ホテルの支配人に「放送があるので帰っていいでしょうか」と確認し、大急ぎで社に戻ろうとしましたが、道路の信号はすべて消え、あちこちで家の壁が道に倒れ込み通行を遮断している。回り道を重ね、もちろん電話も繋がらず、通常30分を1時間半かけて社に戻った。この間、車の中で、ラジオを聴いている人たちの命を守るにはどうすればいいのか、必死で考え続けた。この間に大津波が各地を襲っていたのです。  

海から60キロメートル離れた社から、沿岸部まですぐには行けなかった。共同通信社からは津波被害情報が次々と入ってくる。「宮城県仙台市若林区、壊滅」「20人の遺体が海岸に打ち上がっている」。ニュースの遺体は瞬く間に30人になり、50人になった。

津波は多くの人をのみ込み、家をのみ込んでいった

 

「壊滅」? じゃあ、その方たちも 本当に亡くなったのか

「壊滅」という言葉は、すべてが駄目になった状況です。何も救えない状況が「壊滅」なのです。しかも私たち福島放送の人間は、宮城県の仙台市若林区など行ったこともない。社の誰もが共同通信の速報を「本当なのか」、と疑いました。  

ニュースはやがて福島に変わってきた。「相馬郡新地町釣師浜地区。壊滅」。釣師浜は漁港町で、朝日館という旅館の人たちや漁師さんも私たちはいっぱい知っている。そこが「壊滅」? じゃあ、その方たちも本当に亡くなったのか。  

でも、その現場は誰も見ていない。このときはまだ、原発も爆発していないし原発の危機感もなかった。原発が爆発するのは翌日でした。  

私たちは、この共同通信のニュースを本当にそのまま伝えていいのか。正直に迷いました。  

でも余震は続いていた。その余震が怖くて家には戻れない人がいっぱいいた。車の中でラジオにしがみついて情報を聞いていた人がいっぱいいたのです。私は、この震災の日の夕方6時から翌日の朝6時まで12時間、トイレにも行けず、コマーシャルもなしで放送を続けました。  

そして、この人たちに「今、ラジオを聴いている人はメール下さい」と呼びかけると、「今、車の中で家族と手を握り合って大和田さんの放送を聞いています」などとメールがいっぱい来ました。  

私は「壊滅」とか「何かを伝える」とかじゃなく、「家族みんなで励ましあいながら、懸命に、みんな一緒に、明日の朝を迎えましょう!」。「こちらも情報不足です。明日の日の出は午前5時55分。ゴー、ゴー、ゴー、希望の朝日は5時55分に昇ります! それまで一緒に励まし合って、頑張って、明日を迎えましょう! 明日になれば、皆さんに確かな情報を伝えられます!」と言っていた記憶が残っています。でも、振り返るとそれしか覚えていない。私も放送局のみんなも本当に必死だったのです。

福島県双葉郡浪江町請戸の現状。いまだ人は住めないでいる

 

(つづく)