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森のイスキア主宰 佐藤初女さん

Bynikkansan

9月 23, 2011

迷いを抜けて漕ぎ出す時

大学を卒業してお勤めを始めて5年なり10年なり経った人は「これが本当に自分に 備わったことなのか」と疑問を持って、そのお 勤めを続けるかどうかと悩む人も多いです 知男女は半々くらいですが、男性は訪ねてく るまで1こ時間がかかる人が多いようです。突き当たって進めなくなっているんですね。

 

今はこうした就職難の時代ですから、すぐ に辞めてしまわないで、できることなら次の 見通しをつけてから辞めた方がいいと思います。働く上での苦しみは以前からあり、みんなそれを乗り越えてきているわけだけれども、そこまでいっているかどうかを話します。

 

1時間くらい話を聴いていますとそこでパッと帰れる人もいますし 「自分はできない」と言ってズルズルとやっている方もいます。森のイスキアは標高400メートルくらい の岩木山の裾にあるので、重いもの(心)を持ってくるのは大変なわけですよ。

 

歩いて登らなければならないので、3時にお約束 しても3時に来れない人もいますし、途中であっちに寄ったりこっちに寄ったりする人 も多いようですよ。本人にしてみるとなかな かそう簡単ではないんですね。そうやってたどり着くので、できるだけさりげなく迎え るようにしています。

 

ある時、3時に来る予定の人が夕方にな って食事を食べてしまつてもまだ来ない。 電話は3度くらいありました。電話では 「道 に迷っている」というので道を教えたのですが、まだ迷っている。3度目の電話では「今りんご園の中にいます」と言うんですよ。

 

「なんで今頃りんご園の中に行って迷った のかしら」と不思議でしたが、ちょうど男性 がいたので迎えに行ってくれました。そしてその人は、夕食も何も食べないでそのまま休んだんですね。 次の朝になったら「時間を取ってほしいと」頼まれたのでお話しを聴いたら、やっぱり仕事を辞めるかどうするかと思いつめていました。

 

印刷関係の仕事をしている人で、 いつも機械と一緒だから心も迫ってくるんですね。 「辞めるにしても次のことを考えて から辞めるようにしなさいね」と勧めたところ、1時間以上話した後 「分かりました!」と言って帰ることになりました。「元気でね」 と声をかけると、私に 「元気でいてください。長生きしてください」と言って帰っていったんですよ。

 

それから5年くらい連絡をとっていまし たが、いい方向に向いているようで、勤めも変わって人と出会うような仕事になったの ですよ。そしてパー トナーも見つかって、「そ の人を一緒に連れて来て見てもらって、良ければ結婚したい」と言って連れてきまし た。

 

会ってみたらとてもさっぱりした良い人 で、その人と結婚することになりました。 「結婚までには苦しいことがあったので、 苦しい時にこの山で出発したのでみんなに 祝ってもらいたい」ということで、3月の雪 のひどい時にカンジキを履いてアノラックを着て手をたずさえて、山裾から上に登っ てお祝いしました。

 

イスキアに関係ある人 が20人くらい集まって、私が料理を作りま した。そして新しい出発をしたのです。 その時に、彼は友達に絵を描いてもらっ て記念品として私に持ってきたんです。それはボートを漕いでいるところの絵でした。そ の絵はご本人が掲げた方が意味があると思って掲げてもらいました。

 

その人は最初に訪ねてきて「分かりまし た!」と言った時r漕ぎ出そう」と思ったそうです。漕ぎ出そうと思ったから、漕ぎ出した絵を描いてもらった。今もその絵をかけてあるんです。今は子供にも恵まれて本当に 幸せそうです。今年の春に両親と子供さんを連れて来て、改めてまた感謝して頂きま した。

 

こういう姿に接する度、私は喜びを感じるのです。森のイスキアで出発して、ここでお祝いをした方は3組程います。 そういうようないいこともあるし、そういうところまで行かないで同じ状態を何年も続けている人もいます。 今の時代は皆さんが良い状態になろうとして迷っているように見えますけれど、今は真剣に考えている時期ではないかしらと思っています。

 

ただ悩んでいるのではなく、本当に正し い道に進もうとしているように思えますね。 昔はもっと余裕があるというか。今は真剣 に考えている。特に東日本の震災が大きいと思います。あれから 「本当に自分はこのままでいいのか」という考えですね。だから、 講演会場も若い人がぐっと多くなっていますよ。

 

 

私には心がある、心は汲めども汲めども尽きることはない

 

何がきっかけでこうした活動を始めたのですがと聞かれて、一番心に残っているのは神父様の説教です。 当時のうちの教会はカナダのケベック外国宣教会の司牧にありました。当時の神父様はカナダで福祉の勉強をして、夢を持って日本にやって来ました。

 

それがちょうど大東亜戦争の後だったので日本は落ち着かなく、福祉というところまでは行けない状態で10年位もそのまま暮らしていました。 ある時、兄妹2人の信者さんがrこれを神父様が使ってください」と神父様に全財産を寄付したのです。老人が増えてきた時代でしたから、神父様はその財産でまず老人ホームを作ろうと思ったけれど現金がない。

 

頂いた全財産というのは不動産だったので、どうにもならず大変苦しみました。 私たち信者ができることは、土地を整備することくらいでしたが、整地にはりんごの木を伐採するだけでなく根も掘らなければいけない。神父さんは母国に帰って資金の調達をして、戻ってきて土地の整備をして、また資金の調達に行くという状態でした。

 

その時のお説教だったのですが 「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲の伴わない奉仕はまことの奉仕ではない」とおっしゃいました。その時その言葉が胸に突き刺す程強く私に入ってきました。 「私は意地悪もしていないし不親切もしていないはずなんだけれど、これ以上何ができるだるうか。財的にはなにもないし」と考えながら3月の寒い日に歩いて家に帰る途中、ある交差点に止まりふとひらめきました。

 

「私には心がある。心ならば汲めども汲めども尽きることがない。では私は心でいきます」とそこで決心をしました。私の中では心が一回転するような大きな変化でした。それがその後の生活の中に少なくとも生かされているかと思います。その言葉は老人ホームの表に設置された自然石に刻まれています。

 

神父様はわずか54歳の若さで亡くなりました。信者は悲しんで大変でした。お葬式の後に20人くらいがうちに集まって「これからどうしようか」ということを話し合ったのですが、私は 「いつまでも悲しんでいても駄目なんだから、神父様が望まれたようにこれから私たちでやっていきましょう」と誓い合 ったのです。

 

奉仕の気持ちとその言葉は、当時の信徒の心に残っていると思います。 「犠牲」というのが嫌だと言った人もおりましたが、犠牲というのは、ただ苦しんで無理をするのではなくて、誰でも出来るある一 線を越えることがあると思うのです。自分をいじめるものではないと説明しています。

 

 

母の心はすべてに

色んな問題があってそれを解決する時はお母さんの心に帰れば良いと思いましたので、 「母の心はすべてに」という言葉をサ インにも書いています。お母さんというのは「耐えがたきを耐え、許し難きを許し、ある時は太陽の温かさのように、またある時は厳しい冬の寒さにも値するような愛情ある助言」という言葉で表しています。

 

そしてお母さんの心になった時にすべてが解決するんですね。 例えば、 「夫婦の問題も母の心に帰った時に自然に解決する」とよく言われています。 「妻として私にはこれだけの権利がある」という気持ちでいるとなかなかスムーズに行かないけれど、母の心に帰った時に夫婦の問題が温かく解消されているんです。

 

今、森のイスキアは融合の時代

半世紀前、初めは力が欲しかった。でも力だけではダメだし、開拓しなければならない。開拓したら耕してゆく。そしてみんなが結ばれる。結ばれたら今度はその結び目が解けていく。解けた後は「融合」。

 

今、森のイスキアは融合の時代だと思っています。何かがあって集まると、そこには今まで20年間で出会った人たちが全部そこに溶け合っている。その溶け合ったものが大きな幅になってどこかに進んで行っているんですね。その中にハワイも入って欲しいなあと思います。

 

感謝がなければ、前に進んでいけない。感謝でもって前に進んでいく。出会いを大切にしなければいけないし、出会いの中で多くの学びをさせてもらっているわけです。決まりもないし、形も無い、全く自由で、ただこの精神を伝えていきたいという方々の集まりは、東京の吉田さんご夫妻の「小さな森東京」を始め、「雪のイスキア」「海のイスキア」など、日本には10ヶ所くらいできています。

 

海外ではサンフランシスコとベルギーにもイスキアが出来ています。サンフランシスコは日本人で、ベルギーはベルギー人が主宰しています。母国を離れるというのは大きいことですから、日本を離れた人も話したい人がた<さんいると思います。前回ハワイに来た時、若い学生さんなどが夜遅くまで帰らないんですね。

 

「もう遅いから帰りなさい」と言っても 「帰りたくない」 と言ってそばにいるんですね。そんな人のためにも 「聴いてくれる人がいる」というのは大きなことだと思うので、ハワイでもその精神でいますのでお進み頂きたいなあと思います。私は大きな想いを持って、今回ハワイまで出かけて来たんですよ。

 

 


佐藤初女(さとうはつめ)

1921年青森市に生まれる。青森技芸学 院卒業、1964年より弘前学院短期大学 非常勤講師(家庭科)に。1979年より弘 前染色工房を主宰。1983年、悩み苦しん で訪れる人を受け入れるため自宅を改装 して 「弘前イスキア」を開設。1992年、多 くの寄付や尽力により岩木山の麓に 「森 のイスキア」が完成、心をこめた手作りの 料理でもてなしながら全国各地から訪れる人を迎えている。1995年、龍村仁監督のドキュメンダ) ー映画 「ガイアシンフォニー(地球交響曲)第二番」で、ダライ・ラマらとと もにとりあげられ、その活動が広く知られるようになった。「食べることはいのちの移しかえ」と国内外で 「おむすび講習会」や講演活 動を続けている。2002年、NHK「心の時代」に出演、その活動が紹介された。

 

主な受賞歴

アメリカ国際ソロプチミスト協会賞

日本善行会賞

1993年ミキ女性大賞

1993年ソロプチミスト女性ボランティア賞 1993年 弘前市シ)レバー卍賞

1995年 第48回東奥裳

 

 

主な著書

「おむすびのお祈り」(PHP研究所)(集英社文庫)

「朝一番のおいしい匂い」(女子パウロ会)

「森のイスキアで話したこと」(街のイスキア出版部):CDと写真入りブック

「こころ咲かせて」(サンマーク出版)

「初女お母さんの愛の贈りもの」(海竜社)

「今を生きる言葉『森にイスキア』より」(講談社)


 

 

 

(日刊サン 2011.09.23)