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株式会社ウイン代表取締役 大澤雄一 さん

Bynikkansan

3月 23, 2012

ウインのライターは、プレイボーイ、ランセル、バーバリーらの有名ブランドの喫煙具を製造し、日本だけでなく世界中で愛されたライターブランドです。今年65周年を迎えるウイン社は、1994年から業務内容を不動産賃貸業に変更し、人々が安心して生活できる快適空間の創造に努めています。ハワイにゆかりの深い二代目社長の大澤雄一さんに、親子二代で培った経営哲学についてお話しを伺いました。

ライター:相原光

 

 

親として子供に残したいのは 親がいなくなっても 立派に生活できるという志

 

跡継ぎとして小さいころから徹底的に 帝王学を叩き込まれました

僕は豊島区で生まれて、会社と工場がある板橋区で育ちました。父は第二次世界大戦に出兵し、帰国後に東京ライター研究所に勤め、その後独立して「大澤製作所」を設立してライターの製造を始めました。

 

「ウイン」という名前は東京の代理店が持っていた商標で、それを譲り受けてウインブランドを確立しました。自分のブランドを作り、商社を通さずに直接輸出するという形式を取り、それで成功することができました。  

 

父は質実剛健でとても厳しかったです。当時ライター屋というのは下町に多く、「宵越しの金は持たない」という江戸っ子気質の人が多かった。父は酒を飲まなかったので、そういう人とはあまり付き合わず、どちらかというと遊ぶ金があるなら土地を買うというタイプでした。  

 

僕は長男ですから父の跡を継ぐことが期待されていて、小さい頃から父には徹底的に帝王学を叩き込まれました。例えば、小学生の頃父がよくドライブに連れていってくれたのですが、信号待ちで停まると必ず「この四つ角に何があるか覚えろ」と言われるんです。

 

うるさい事言うなあと思うんですが、まあ父の言う通りにタバコ屋と小鳥屋があるなと覚えました。車が進んでまた信号待ちになると、また四つ角に何があるか覚えろと言う。

 

なんでそんなことをしなければならないのかと尋ねると、「お前は俺の跡を継いで経営者になるんだから、運転している時もボケっとするな。日本はアメリカと違って区画されていないんだから、誰かに道を聞かれ時に地図を書けないと困る。日本で地図を書くときは交差点の目印を書かなきゃならないんだぞ。だからちゃんと覚えろ」と(笑)。

 

だから車に乗っていても電車に乗っていても海外旅行に行っても「ここに何があるかな?」というのが気になってしまう。そういうことが自然に身についてしまったんです。いちいち観察する習慣が、今でもものすごく役に立っていると思います。  

 

また、父はただお金を出してくれるということは絶対になく、お小遣いが欲しければ必ず「アルバイトをしなさい」と言われました。アルバイトとして工場のまわりのドブさらいを父と一緒にしたものです。

 

ドブさらいをしていると、銀行の人やセールスの人などがやって来て「おじさん、ここの社長いるかな?口座を開設して欲しいんだけど」と話しかけてきます。父は「いやあ、ここの社長はケチだから駄目だと思いますよ」なんて答えている(笑)。そうやって自分の力で働いて報酬を得るということを学びました。  

 

取引先が倒産してしまった時に、取立てに連れて行かれたこともあります。倒産した社長さんはいろんな業者さんから罵声を浴びせられ、畳の上で泣いている。そんな光景は小学生にはとんでもなく衝撃的です。父はその社長に「あなたの売り掛けの分は忘れますから、その代わりに今日1日息子をここにいさせてください」と行って帰ってしまいました。  

 

怖い人が来て怒鳴ったり、勝手に家財を持って行ってしまう人もいる。そんなのを見たら脳裏に焼きついてしまいます。父は夕方迎えに来て「この人はどうしてこうなったか分かるか?」と質問します。「この人は手形を切ったんだ。手形を落とせなくなってこうなってしまった。手形は絶対に切っては駄目だぞ。現金で商売をしろ」と叩き込まれました。ですからうちはずっと現金商売です。  

 

でもタダのケチというわけではないんです。僕がドイツの代理店に行った時、「ウインのオフィスとしていい物件があるけれど、金がないから貸してもらえないだろうか」と代理店の人に頼まれたことがありました。

 

国際電話で父に相談したところ、貸してあげなさいという返事が返ってきました。「その代わり、貸すなら無利子・無担保・無期限で気持ちよく貸しなさい」という父の答えに、代理店の人は大喜びです。そういうところは掌握術が上手いんです。貸したお金は利子もついてきちんと返ってきました。  

 

自社ビルを建てる時に、取引先の銀行に建築会社を紹介されたことがありました。頭金を払って工事を始める段階になったら、建築会社の人が誰も来ない。

 

調べてみたらその会社はすでに倒産していました。要するに、銀行はその建築会社に金を貸していたので、うちの金を回収分に充てて、支店長と副支店長は転勤してしまったんです。金を返してくれと頼んでも「そんなことは知らない」の一点張り。

 

父は頭にきて、それから毎日銀行に怒鳴り込みです。忙しい時間を狙って出かけて行って、カウンターを叩き、大声で怒鳴っていたところ有名になってしまい、週刊紙が取材に来ました。週刊紙に載ってしまったら大変なことになってしまいますから、なんとか示談にしましょうと銀行から連絡がありました。  

 

銀行側からは頭取が出ないと分かり、それならこちらも社長が行く必要はないと父は判断し、代わりに僕が行くことになったのですが、その時、僕はまだ入社したての若造(22才)でした。

 

すでに払っていた頭金を含めて、ビルの建設資金5億円を無利子・無担保・無期限で貸してくださいと、僕は父の意向を伝えました。先方は僕の顔を見るなりかなり不機嫌になっていましたが(笑)、無事にお金を借りることができました。

 

 

高校1年の夏休みに一人でアメリカ一周の旅

高校生の時に映画「イージーライダー」に憧れて、アメリカ、メキシコ、カナダに旅行に行きたいと父に頼んだところ「友達と一緒に行ったら英語なんて身につかないから、行くなら一人で行きなさい」と言われました。

 

英語は全然喋れなかったので、近所にあった米軍の空軍基地にもぐりこんで、歩いているアメリカ人を捕まえて英語を教えてくれと頼みました。その当時は英会話スクールなんてありませんから、自分でなんとかするしかなかったんです。父に飛行機代と月300ドルの旅行費を出してもらって、16歳・高校1年の夏休みに一人でアメリカを周ることになりました。  

 

サンフランシスコを出発して、ソルトレイクシティ、フラッグスタッフ、グランドキャニオン、ラスベガス、ロサンゼルス、メキシコシティ、タスコ、ニューオーリンズ、マイアミ、ウィリアムズバーグ、ニューヨーク、ボストン、モントリオール、シカゴと周りました。

 

99日間99ドルというグレイハウンドバスの周遊券を利用したので、移動は全部バスです。バスで寝るのもしょっちゅうでした。アメリカは広いので移動に時間がかかります。夜出発の便に乗れば寝て起きたら目的地につくので宿泊費が浮きます。1日5ドルくらいの予算だったのでできるだけ節約しなければならなかった。  

 

宿泊はYMCAを利用しました。1泊5ドルです。ある時入り口の階段に座っているバックパーカーの少年に「部屋をシェアしないか」と誘われ、シェアすると1人2ドルになると聞きました。それ以来、今度は僕が階段に座り、バックパーカーに「部屋をシェアしないか?」と尋ねるようになりました(笑)。  

 

最初サンフランシスコからソルトレイクシティに行くのに18時間もかかると思わなかったし、夏だったので薄着でバスに乗ったら、冷房が効き過ぎで寒くて風邪を引いてしまった。熱があり下痢もしていたのでYMCAで医者を呼んでもらったけれど、注射をしてくれるわけでもなく処方箋を書いてくれただけ。薬局に行かなければならないけれど、そんな仕組みも分からない。

 

下痢という言葉を辞書で調べて「diarrhea」という単語を覚えてフラフラになりながら薬局に行って、なんとか薬を買いましたが、その時に親のありがたさをしみじみ感じました。  

 

子供の頃に風邪をひくと母がネギを焼いてガーゼに包んで首に巻いてくれましたが、焼いたネギって臭いんですよ。だから邪険にしていましたが、あの時は「ああ、ここにお袋がいたらネギを焼いてくれただろうな」と思いました(笑)。あんなに邪険にしないでもっと親孝行しなくちゃなと。  

 

それから、日本では東横線での通学途中に毎朝上級生がイチャモンをつけてくるので、そのたびにケンカをしていました。僕はヨット部で、アメリカンフットボール部とは敵対していたので、何かにつけて言いがかりをつけてくる。

 

ガンをつけたとか、帽子のかぶり方が生意気だとか、鞄が良過ぎるとか、くだらないことです。ソルトレイクで地図を見ていたら、世界地図の中では日本なんて小さいし、東横線なんて見えやしない。「なんで俺はこんな見えないような所でチマチマと悩んでいるんだろう?今、俺はこんなに大きい所で動いているんだ」と思いましたね。  

 

アメリカには同じように旅行している若者がたくさんいました。フランスやドイツなどヨーロッパからのバックパーカーはYMCAのフロントに英語で文句を言っている。彼らにしてみれば英語は第二外国語ですが、僕と同じ年の奴らが外国語で対等にやり合っている。僕は言いたいことも言えない。

 

自分が相手にするべき相手はこのフランス人やドイツ人であって、東横線でチマチマやっている連中じゃないという気持ちになりました。  

 

日本に帰って同じことが始まった時、僕の態度は完全に変わってしまいました。やりあうのが馬鹿馬鹿しくなってしまったんです。文句を言われたらすぐに謝って終わり。自分の相手は世界だ、そう思えた経験が一番大きかったかもしれないですね。

 

最初のアメリカ旅行が終ってからは、来年はヨーロッパ、その次はアフリカ、中東、南米とプランを考えて、大学卒業するまでの間に南極と北極以外は全部行きました。