日刊サンWEB

過去記事サイト

広田奈津子監督 インタビュー ドキュメンタリー映画  「カンタ!ティモール」ハワイ初上映

Bynikkansan

10月 16, 2018

 

広田奈津子監督

プロフィール:1979年愛知県生まれ。南山大学スペイン語科卒。環太平洋の先住民に関心を寄せるうちに、東ティモールの人々に出会う。現在は日本や世界各地で「カンタ!ティモール」の上映を行うとともに、生物多様性についての運動も行っている。

 

インドネシアの島が連なる赤道近くに浮かぶ小さな国、東ティモール。 2002年に独立した、アジアで一番若い国家だ。 その歴史は悲惨な侵略と殺戮の繰り返しで、独立後も内紛が絶えなかった。 しかし東ティモールの人々は、弾丸が飛び交い、3人に1人が命を落とす中 残された命を分けるように助け合い、笑い、そして歌った。 忍耐と愛で勝ち取った独立! カンタ!(歌え)ティモール 広田奈津子さん達が最初に訪れたのは2002年。 東ティモールの独立を祝う式典に、たくさんの人が喜び集っていた。 その中である青年の歌をふと耳にした。 日本に帰国後もメロディが耳に残って離れない。 広田さん達は青年を探すために翌年、東ティモールに戻った。 そして青年との旅が始まり、いつの間にかその旅は、 愛すべきふるさと、現代日本の姿を問いかける旅ともなった。 3ヶ月に及ぶ旅の記録は、ドキュメンタリー映画として結実した。 試写の完成後、東日本大震災が日本列島を襲った。 2012年から始まった上映会は、3.11後の日本人の生き方を考える 復興と再生の賛歌でもあった。 現在、『カンタ!ティモール』は日本全国1000カ所以上で上映され続け、 東ティモール始めオーストラリアやマレーシアなど、世界13カ国でも上映されている。 今回ハワイでも初めて公開されることになり、上映に先立ち広田さんに 映画に関するさまざまなエピソードを伺った。       (取材・文 奥山夏実)

 

大地を母と呼ぶ少数民族たちとの出会い、 ネイティブハワイアンにも教えられて

 

「カンタ!ティモールは、実はハワイつながりなんです……。私は名古屋で生まれ育ちました。家の周りは雑木林などの自然が残っているところで、幼い頃は森の中で秘密基地を作ったりして遊んでいました。タヌキやイタチもいてね、森の中に1本の大きな木があって、私は自分のいろんなできごとをその木に報告しながら成長しました。ところがある年から宅地開発が一挙に進み、私が遊び育った森もブルドーザーで一面更地になってしまって。タヌキの巣穴も押しつぶされて、一緒に遊んでいた私も同じような目にあうのかとショックでした。木を切るにしても、森に挨拶くらいあってもいいんじゃないかって。フシギちゃんみたいでヘンなんですが(笑)」  他人に思いやりを持ちなさい、と言っている大人が、木やタヌキには命がないかのごとく扱うさまが、理解できずに混乱した。 「高校を出た頃、本屋さんで偶然、ネイティブアメリカンのことを伝える本に出会いました。そして初めて、大地を“母”と呼ぶ民族がいることを知ったんです。私が森に感じていた母性のようなものと呼応するんじゃないかって、カナダまで会いに行きました」  フシギちゃんは意外な行動力を発揮する! 「ネイティブアメリカンの長老に会うことができて、太平洋を囲む地域には大地を母と呼ぶ民族が多くいるから、彼らに会ってくると良いと教えてくれました。それで沖縄やアジアの国々、ポリネシア、ハワイにも行きました。その時、ネイティブハワイアンの人から、東ティモールが独立することを教えてもらったんです。知り合ったハワイアンは、東ティモールの人の自然への接し方や命の捉え方にはハワイアンと多くの共通点があると言っていました。同じ海洋民族というか、ポリネシアの血がつながっているんでしょうね」  広田さんはハワイから帰ってすぐ、東ティモールのことを調べた。日本が占領していた時代があったこと、同国は産油国でもあるので、石油目あてに様々な国が利害関係にあることなどを知る。

 

21世紀初、アジアで一番若い国 東ティモールの誕生に立ち会った

 

2002年5月、新しい東ティモールが生まれる独立記念の祝賀式を見に行くことにした。当時広田さんは大学4年生で、印刷会社への内定が決まっていたのに、なんと、大胆にも就職より東ティモールを選んでしまったのだ。 「独立を祝うために広場にはたくさんの人が集まっていて、その中で、後に名前がわかるのですが、アレックスという青年が歌を歌っていました。すごく穏やかなメロディで、子守唄みたいに優しさに満ち溢れていて。そのメロディが日本に帰ってきてからも頭から離れなくて」  一年後、広田さんは再び東ティモールを訪れ、2度目の独立記念日に立ち会った。音楽家の小向サダム氏も一緒で、サダム氏はのちにカンタ!ティモールの音楽監督を務めることになる。 「同じ場所で同じ声を聞けたのです。今度こそは!とアレックスをつかまえて、歌のメロディを教えてもらい、帰国。その曲を“星降る島”として日本のミュージシャンがカバーして広がり始めました。でも、元の詩の意味がわからない。それで、もう一度アレックスに会いに東ティモールに行きました。住所も知らない彼をなんとか見つけ出し、歌詞の意味を尋ねたら、詩は感じるものだから説明できないと、いたずらっぽく笑ってかわされちゃって」  そのかわりにすぐ近くの自慢の村を案内するからと言うアレックス。付いて行ったら4時間歩いても村にたどり着かず、全員で途中の村の家に泊めてもらったり。この出会いを、東ティモールの今を、人々の心を伝えたい!

 

アポ取りも演出も一切なしで撮影開始、 笑顔もつぶやきも歌も、ありのまま!

 

広田さんらは大急ぎで帰国して友人の撮影機材を借り、再度東ティモールへUターンした。そしてアレックスと3ヶ月間に渡り、村から村へ島の奥まで歩き回り、日が暮れたらどこかの家で一宿一飯のもてなしを受けた。 「アポなし取材どころじゃなく、アポなしでご飯を食べさせてもらって泊めてもらって(笑)。映画の構成は全く考えずに、一期一会の出会いを大切に、口伝てに現地のテトゥン語を教えてもらったり、歌詞を書き留めたり。ありのままの暮らしとありのままのつぶやきを撮影しました」 ♫ ねえ仲間たち ねえ大人達 僕らのあやまちを 大地は知っているよ♫  アレックスの歌はこう始まっていた。彼は子どもを歌わせる天才だ。カンタ!ティモールには、子ども達の弾ける笑顔と無垢な歌声がたくさん登場する。 「東ティモールの人は弾圧を受けた被害者なのになぜ、僕らのあやまちと歌うんだろうと思っていろいろ聞いていたら、ティモールの現地の言葉には、“あなたと私”の分け隔てがなく、テトゥン語の「僕ら」はイタで、「あなた」もイタ、一つの単語であることが分かったんです」  お互いに助け合って生きていく社会では、あなたは私でもある。母なる大地に根ざした、大きな家族であるという考え方。古くて新しい、すばらしい人間の知恵。 「それはハワイアンのオハナ(家族)の伝統にも共通していますよね」  と、広田さん。歌詞はどれもシンプル。真実の核心だけが磨かれ、美しい輝きを放っている。だから私たちの心を打つ。 ♫ 悲しい いつまでも悲しみは消えない でもそれは怒りじゃない 怒りじゃないんだ ♫ ♫ 人は空の星々と同じ 消えては 空を巡り また必ず 君に会える♫ 「歌の多くは録音されて伝承されたわけではないのに、ものすごく遠くの村同士でも共有されています。軍事攻撃を受けた20余年、人々は常に危険にさらされていました。母国語で平和を歌うなど自殺行為で、歌はひっそりと耳から耳へ伝えられました。そうするうちに、シンプルで耳に残るものになっていたのではないかと思うんです。まるで川を転がる石が丸くなるみたいに。だから私の耳からもずっと離れないのでしょう」  カンタ!ティモールの道先案内人であり、映画の主人公であるアレックスは当時27歳だった。 「母国語で歌を歌うだけでも、3人集まっておしゃべりしているだけでも連行されるほど弾圧の中でアレックスは育ちました。武器を持たず、母なる大地ティモールの、自然の美しさや人々の慈しみ深さを歌うことで平和運動をしてきたアレックス。それでも何度も連行され殴る蹴るの暴行や、電気ショックなど瀕死の目に何度もあいながらも、歌うことをやめなかったアレックスです。歌いながらアレックスは子ども達に語りかけるんですね。「小さい命が虐げられる世界は終わらせることができるんだ、いいか分かったか!」って」  まっすぐな目で「戦争は終わらせることができる」って、何の疑いもなく言っているアレックスの姿を見て、広田さんは頬っぺたを叩かれたような思いがしたという。 「私の中にあった、平和を望む気持ちと、そうは言っても世界のどこかで戦争は続くのだろうという諦めが、中途半端な思いが恥ずかしかったです。私は音楽は娯楽のようなものだと思っていたけれど、迫害から逃れて輪になって踊る時、彼らは母なる大地から生きるエネルギーを受け取っていることを知りました。カンタ!、歌うことは彼らの生きていることの証しなのではないでしょうか。以前ティモールで、日本人として私達はどんな支援ができるでしょうかと聞いたことがあったんです。そうしたらそのティモールの人は、「あなたの仕事をしてください。あなたの地域が良くなれば、世界に平和が訪れるよ」と言われました」  私達は映画、カンタ!ティモールを観ることで、生きることへのエールの交感ができるのだ。

 

アレックスからの遺言、 どうか信じて進んでください

 

映画の中で、美しい歌声と包み込むような笑顔を届けてくれた、ヘルデール・アレキソ・ロペス、愛称アレックス。彼は昨年11月、心臓麻痺で突然亡くなった。42歳、妻と5人の子ども達を残しての若すぎる死であった。 「恐怖の中で育ち、何度も拷問を受け、ティモールの人々の心身はダメージを受けているんです。私達は日本で追悼式をし、ティモールに行ってアレックスの家族と会ってきました。生前、アレックスからメッセージをもらいました。ハワイにお住いの皆さんとシェアしたいです。そしてぜひ、映画の中のアレックスに会いに来てください。そうすればアレックスの命はリレーされていくと思います」 たとえ仲間が10人にしか見えなくて 対するものが あまりに 大きく見えても 命が喜ぶ仕事には 生まれてくる人達も ついている それは1000どころじゃないんだ 絶対に大丈夫だから 恐れずに進んでください 途中で命を落とすことが あるかもしれない それでも大丈夫だから 恐れないで 心細くなった時は 思い出してください 東ティモールのことを 僕たちは小さかった あの巨大な軍隊を 撤退させるなど 奇跡だと 笑われた闘いでした それでも軍は撤退した 夢でも 幻想でもなく これは現実に起きたこと 見えない力が 僕らを支えてくれたから  どうか信じて 進んでください

 

 

東ティモール

東ティモール民主共和国はジャワ島、バリ島などインドネシアの島々が連なる赤道近く、小スンダ列島の東端に位置する。ティモール島の東半分と近隣の島々を有する美しいサンゴ礁に囲まれた島国だ。四国とおよそ同じ面積の国土に100万人強の国民が暮らしている。  歴史は悲惨な侵略と殺戮の繰り返しだ。16世紀にポルトガルがティモール島を征服し、その後オランダが西ティモールを占領。1942年には日本軍がティモール全島を占領したが、第二次世界大戦後に東ティモールは再びポルトガルの支配下となる。  1976年にインドネシア共和国が東ティモールの併合を一方的に宣言し、インドネシア軍による激しい弾圧が始まる。東ティモールの人々は殺戮や飢餓により20万人が命を落とした。  その後も1991年、インドネシア軍が無差別発砲して400人近くが殺されたサンタクルス事件、1999年の住民投票に端を発した東ティモールの破壊と殺戮など、アメリカや日本から資金調達したインドネシアの潤沢な軍備により、東ティモールの人も家も街並みも壊滅状態になる。それでも東ティモールの人々は抵抗を続け、2002年、21世紀初めてのアジアで一番若い独立国となる。  しかし独立後も内紛が続き、2006年〜2008年まで暴動が頻発していたが近年やっと落ち着き治安も安定、観光客も訪れている。

 

 

「カンタ!ティモール」チケット購入は、「Eventbrite」から➡︎www.eventbrite.com/e/canta-timor-tickets-50283394988