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力ピオラニ・ コミュニティ ・カレッジ  リンダ・エンガ・フジカワ教授

Bynikkansan

1月 13, 2012

ゲンズブックとゲンズハウス

私の長男はダイビングの事故で18歳で亡くなったのですが、あれほど人生を満喫した人はいないと思います。

 

亡くなる前の日は夜中まで釣りをしていて、亡くなった日の朝は5時半からカヤックを出して準備をしていました。「今日はダイビングの有名な人がくるから」と大喜びでね。

 

「今日は友達を連れて行かないの?」と尋ねると 「今日は寒すぎるから今度連れて行くよ。僕は今日、もっと学びたいんだ」 「OK、いってらっしゃい、気をつけてね」という炊飯器の上で交わされた会話が最後でした。

 

息子は最後まで自分の愛する釣りができた、それも、クリスマス用の我が家の魚を釣りに行っていたんです。生まれて7ヶ月でもう泳ぐようになって、本当に海が大好きでした。

 

18年の人生だったけれど、年齢も人種も超えてたくさんの人がお葬式にきてくれました。ホームレスの方たちもたくさん来てくれました。ゲンは釣りに行くと余った缶詰なんかをホームレスの人たちにいつも差し上げていたのだそうです。

 

ホームレスの方は警察が来るとテントから追い出されてしまうのですが、釣りをしているなら追い出されないので、彼らのテントにゲンは釣竿を置いておいたりもしていたそうです。渋滞したら魚を全部あげてしまったり。

 

そうやって、ゲンはホームレスの方たち のケアをいつもしていたそうです。

 

ゲンが死んでしまって5日くらい経って、その悲しみをどうすることもできない時に、朝早く目覚めるとゲンがベッドルームで壁に寄りかかって 「僕は次の段階へ行ったから、マミーは好きなことをしなよ」と言ったんです。

 

それがとても息子らしくて。そこでハッと目が覚めました。突然「ゲンズ・ブック」という言葉と 「ゲンズ・ハウス」という家のイメージが心に浮かびました。

 

悲しみで涙が一杯で、文章なんて書けないと思っていたけれど、そのイメージを基に文章を書くことができました。それが 「ゲンズ・ブック」です。

 

ゲンズ・ブックは財団法人となり、自然が好きで人助けができる人に、奨学金のように金銭的な援助をすることを目的としています。

 

「ゲンズ・ ハウス」は、スリヤさんというスリランカ人のアーテイストの方の協カ で、ワイアナエの農場に 小さな家を今作っています。スリヤさんとは不思議な縁で知り合いました。

 

ス リヤさんはスリラン力の内戦でお父様を亡くしています。それまでは幸せな生活をしているハッピーファミリーだったのですが、自分の父の血が流れているのを見て、大切なものがその血と一緒に流れてしまったのです。

 

「もう何 もいらない」とサードゥ(何も持たない修行僧)として歩き始め、スリランカからインドに行きました。インドのサードゥーが 「お前はこれからまだ世界に返すものがある」と面倒をみてくれたそうです。

 

その後インドからヨーロッパまで歩いて行きました。ヨーロ ッパからは、アメリカ人の友人が飛行機代を出して下さって、アメリカまで渡りました。

 

そしてアメリカを歩いてハワイにたどり着きました。世界中回って、ハワイが一番心地よかったので落ち着くことになりました。

 

ワ イアナエに神父さんが農場の中で運営していた精神病院がありました。精神病の方がスムースに社会復帰できるように自然の中で生活できるというところで、スリヤさんはそこに30年以上携わっています。

 

最近は精神病院ではなく、ホームレスの人を受け入れる施設としても使われています。ここはハワイアンの方の許可を得て運営されているところです。

 

リトリートやカフェがあり、農場で収穫された野菜を提供しています。 たまたまそのカフェに食事に行った時、シェフに 「あなたのことは知っていますよ、ゲン のお母さんでしょう?」と言われました。

 

スリヤさんの甥はたまたま私の学生で、ゲンズブックとゲンズアウォードを受賞していたんです。 それがきっかけで、近くの農場 (Mouna Farm)にスリヤさんがゲンズ・ハウスを作 ってくれています。

 

ゲンはマンゴーの木とラ イチ の木とボートがあれば幸せだったので、マンゴーとライチ の木を植えて、ボートを作っているところです。スリヤさんはカハ ラの豪邸の 「門」を作っているアーテイストでもあります。

 

スリヤさんの画廊とオーガニ ックの農場も作って、皆の心のゆとりの場所にしたいと思っています。スリヤさんにアメリカ行きの飛行機代を出してくれた方も農場でお手伝いをしているそうです。 そんな風に、あの夢がどうにか実現しているんです。

 

「どうして死んでしまったの?」と問いかけても答えはないんだと、あるときふと気づきました。答えがないということは、それを受け入れて生きていくしかない。

 

生きていることだけでも不思議 (wonder) ですから、wonder がwonderfulになるように、それが私のすることだと思いました。死は生きること の一部。

 

私たちは細胞レベルではある意味毎日死んでいるわけです。死のように大きなことで揺さぶられた時に、人間の本当の深度が出てくると思う。

 

自分の我を超えて、人類の心を皆で作っていけたらと思いますね。 「人間」という言葉は、一本の線を支えて 「人」になる。でもそれではまだ 「人間」ではない。

 

「間」という字をつけないと人間になりません。 「間」という字はお互いに「インタ ラクト」するということですよね。「human be ing」もただ の 「human」ではなくて「human be-ing」と進行形がついている。

 

このスペースに意味があるのではないかと思うのです。見えないところにこそつながりがあると思う。私たちは見えないもののカタマリですよね。見えないものが魂である。英語と日本語も似ているんだと思いました。

 

 

色んな国の人と交流することで、自分の世界観を高めることができる

今はKCCで日本語を教えています。観光 業の日本語という特別な講座を作り、文法的なものではなく、インタラクテイブで実用的な日本語を教えています。

 

講座はオンラ インで見ることができ、宿題や試験などにはYoutube も活用しています。この講座を基礎にして、中国語や韓国語の講座も今作 っています。

 

現在、金沢工業大学に9人が留学しています。留学生はオンラインのパートナーに日本語で日本のことを書いて送り、パートナーが添削してます。お互いが励ましながら、お互いの勉強になっています。

 

また、留学生たちは週に1度図書館で本を読むボ ランティアをしたり、「外人から見た日本」という写真展を開催したりしています。

 

夏には学生ではなくアメリカ本土から大学の先生約20人をKCCに招き、3週間集中的に日本語を勉強するという講座も行っており、私はその授業も担当しています。

 

このプログラムはもう7年程続いていて、今までに1,500人くらいが受講しています。私が担当している 「インターナショナルカフェ」は11年目を迎えます。

 

 

大学のカフ ェテリアなどでは、日本人は日本人と集まるし、ローカルはローカルと集まるという傾向があります。それはもったいない。

 

みんなが交流できて、何か授業の役にも立ち、安全な場所を作りましょうということで、スーザン・イノウエ先生と一緒に 「インターナ
ショナルカフェ」を作りました。

 

でも 「カフェ」だとお茶を飲むだけで終ってしまうので、サービスラーニングを入れることにしました。 サ ービスラーニングとボランティアの違いは、ボランティアは一方通行ですが、サービスラーニングは奉仕をして学んだものを自分の勉強に関連付けるもの。

 

例えば、哲学専攻ならば、インターナショナルカフェで中国人の友達と交流して、現代の中国の若者が哲学の教えをどのように生活に取り入れているかを、論文に書く 。

 

そうすると、哲学のクラスは授業の一部としてそれを扱 ってくれます。色んな国の人と交流することで、自分の世界観を高めることができます。

 

インターナショナルカフェは、学生たちが異文化のエキスパートとなって、それを社会に持ち出す、そういうリーダーシップを作る場所でもあるんです。

 

それから、家ではないけれど心がくつろげる、色んな年齢の色んな国の人たちが助け合うことができる場所。私はここのお母さんのような存在(笑)。アメリカ教育委員会から賞も頂きました。

 

予算ゼロで11年も続いているプロジェクトはとても珍しいのです。最初は 「あそこに行けば、カップラ一メン食べながら話を聞くだけで、ペーパーも書かなくていいし楽できる」と思って来る子が多いのですが、その子たちの意識が変わるのがはっきり分かります。

 

学校を卒業してからも10年来ている子もいますし、自分のインターナショナルカフェを作った子もいるのです。やりたいと思ったことはなんでもやってみなさいと言っています。

 

そこで自信がついてきて、いろんなことに挑戦するようになります。社会人になっても自分から行動できるようになって欲しいと思います。

 

「Education教育」という言葉はラテン語の 「educere」という語に由来し 「何かを引き出す」という意味なんです。ですから、私が教育者としてするべきことは、教えるのではなくて、その人の一番いいところを見つけて磨き上げることだと思います。

 

 


Linda Enga Fujikawa

カピオラニ・コミュニティ・カレッジ教授、専 門は日本語・ 言語学・文学。
横浜生まれの日系三 世。 10歳から 14歳ま でをタイのバンコクで 過ごす。ハワイ大学卒 業後、ピースコーのプ ログラムで韓国へ。英 語教師として観光業 の英語プログラムなど を開発。

その後ヴァーモント州の大学院で 学び、金沢工業大学で3年間英語を教える。ハワイに戻り結婚。夫は哲学の教 授。夫婦共にカピオラニ・コミュニティカレッジで20年以上 に渡り教育に携わっている。教育者として数々の賞を受賞、 昨年はインターナショナルカレッジの功績が認められ、フラ ンクリン ・ H· ウィリアムズ賞を受賞している。


 

 

 

(日刊サン 2012.01.13)