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力ピオラニ・ コミュニティ ・カレッジ  リンダ・エンガ・フジカワ教授

Bynikkansan

1月 13, 2012

 

KCCで日本語を教えているリンダ先生は、日本生まれの日系三世。第二言語としての英語習得プログラムや、インターナショナルカフェといった画期的な教育法で、若い世代の国際交流をサポートしています。また、ボランティア活動にも熱心に携わっています。佐藤初女先生や鈴木秀子先生の講演では同時通訳を務めていたので、こ存知の方も多いのではないでしょうか?いつでも笑顔でとっても明るく温かいリンダ先生にお話しを伺いました。

ライター:相原光

 

教育者としてすべきことは、
その人の一番良い所を見つけて磨き上げること

 

日系二世として戦った父

私の父はアイエア出身の日系二世で、祖父と祖母は1901年に新潟から移民しています。第二次大戦前に、父は戦争が起こりそうなことを予感していて、志願兵として入隊していました。

 

12月7日はたまたま日曜日なので家に帰ってきていたら、トタン屋根の上を飛行機が朝からピュンビュン飛んできたそうです。

 

飛行機の日の丸が見えたので、一世の人たちは「今まで一生懸命や ってきたことが分かってもらえたんだ!」と万歳する人もいたのだけど、そこで目の前が火の海になってしまいました。

 

「これは戦争だ」ということで、父はすぐにスコフィールドに戻りました。 ところが、「国籍はアメリカ人だけど、日系人は敵」と言われ、部屋に入れられて銃も取られてしまい、父は死刑にされると思 ったそうです。そのまま船に乗せられて、気づいたときはカウアイ島でした。

 

「あなたたちはアメリカ人だからアメリカ軍として戦ってもらう。しかし顔は日本人だからヨーロ ッパの戦線に送ります」と言われ、トレーニングを受けて、父は「第100歩兵大隊」として派兵されました。

 

そして本士の日系人たちとハワイの日系人が合併して 「442連隊」 が編成されました。最初にアメリカ本土でトレーニングを受けた時、ハワイの日系人は「ブッダヘッド」とか 「ポブラー」と呼ばれていました。

 

本土の日系人の方がカッコいいというイメージがあったんです。そのせいで日系人同士でものすごく差別があった。本土の日系人は「カトンクKatonku」と呼ばれていました。

 

でも実際の戦線では、差別はなくなり心を一心として、日系アメリカ人として戦いました。本土•そしてハワイの日系人たちの収容所の体験を心におさえ、ポブラーもカトンクも皆一体として戦いました。

 

トルーマン大統領が戦後 「あなたたちは、敵だけではなく偏見とも戦い勝利した(You have fought and won not only the enemy but prejudice)」と日系人たちを讃えています。

 

父の部隊は150人で出兵して、18人だけ生き残った。父は冬の川に落ちた仲間を2人助けてシルバースターを頂いています。その時助けた人と1ドル札を半分に分けて「いつか再会してこのお札をくっつけよう」と約束したのだそうです。きっと天国でくっつけていると思います。

 

戦後は、エンジニアとしてマッカーサーの部隊と共に日本に行き、アメリカ軍のネイビーハウジングの仕事をしていました。母は日本の箱入り娘で、米軍のお手伝いをしていた兄にPXのアルバイトを紹介され、そこで父と知り合いました。

 

ふたりは駆け落ち同然で結婚して、それで生まれたのが兄と私です(笑)。父は25歳だと母に言ったのですが、実は35歳だったの。結婚するときに気がついたんだけど、もう遅い(笑)。

 

父は、戦争の面白い話はたくさんしてくれたけれど、つらい話は絶対にしなかったです。でも父が亡くなる前に介護をしていた時は、本当のことをチョコチョコ話してくれました。

 

本当に大変だったのは、他の軍が行きたくない所に犠牲部隊として送られていたことだったそうです。でも、つらい事があったからこそ本当の喜びが良く分かるようになったと言っていました。

 

マイナス+マイナス=マイナスになりますが、マイナス×マイナス=プラスになりますよね?

 

そこで何かの変化が起きれば、マイナスがプラスになると思います。戦争でも悲しみでも、マ イナスの状態を続けていけば、もっと大きなマイナスになってしまう。

 

けれども、私たちにはそれを変える機会がある。戦争のような悲劇が世界平和につながればと思います。

 

 

横浜・タイ・ハワイ・韓国、国際交流で日本の伝統に興味を持つ

私は生まれてから10歳まで横浜で過ごしました。最初に話したのは英語ではなくて日本語だったそうです。

 

キリスト教系の学校に入り日本語でばかり話していたので「英語が喋れなくなるのでは?」と父が心配し、アメリカンスクールに行くことになりました。初めは英語も話せないし、嫌で嫌で一日中泣いていました。

 

学校に行くときに「大きいビタミン剤を飲んで、すぐに英語が喋れるようになればいいのに」といつも思 っていました。ですから今学生たちに「みんなの気持ちは良く分かるよ」といつも言っています(笑)。

 

日本では優秀だった子ほど、アメリカに来たら言いたいことが言えずにつらい思いをしているわけですから。「いつかビタミン剤がスッと効いて、話せるようになるよ」と言っています。

 

10歳の時に、「日本があまりにも経済発展してつまらなくなった」と父が言い出して、タイに引っ越すことになり、1961年から64年の間、14歳までバンコクで過ごしました。

 

わざわざ外国人がいないところに住んで、パスで1時間かけてインターナショナルスクールに通い、そこで本当の国際交流を経験しました。

 

学校にはビルマ・ ラオス・ドイツ・インドと様々な国の友達がいました。それまでは日本人とアメリカ人しかいませんでしたから大きな変化です。

 

そして「日本って面白い国なんだな」ということに気づきました。 14歳で日本に戻り、日本の面白さに気づき伝統的なことに興味を持ったので、琴を習い始めました。

 

休みの日は仲の良い友達と400円でどこまでいけるか試して遊んでいて、夏休みには横浜から下関まで行ってしまい、そこでビザを取ってフェリーで韓国まで行ったこともあります。

 

それで 「世界旅行ってこんなに簡単なんだ」と自信がつきました。 大学はハワイ大学に進みました。勉強が嫌いだったので(笑)、一番簡単なものを選んで日本語を選択して3年で卒業してしまいました。

 

主人とはすでに出会っていたのですが、このまま結婚するのももったいない。

 

それまでは家事などは全部やってもら っていたので、自分の力を試すにはどうすればいいか考えて、ボランティアで 「Peace Corp(ピースコー)」に参加することにしました。ピースコーといいうのは、ケネディが大統領の時に平和の奉仕団体として作られました。

 

「国があなたたちのために何ができるかではなく、あなたたちが国のために何ができるかを探してきなさい」という使命でピースコーができて、ハーバードなどエリートの大学に特に集中し、学生たちが世界に出て奉仕をするようになりました。

 

アメリカ政府は援助として、現地の通貨で給料を支払うという仕組みです。私は英語の教師として韓国に派遣されました。 最初の1年は中学生と中学の先生に英語を教えました。

 

2年目からは大学で観光 業の英語のプログラムを作ったりスペシャルオリンピックのお手伝いなどを担当しました。韓国の歴史を全然知らずに行ったので、大変な部分もありました。

 

白人が「アニハセヨ」と言えば 「韓国語が上手ですね」と褒められるけれど、私の場合は 「どうして日本人が英語を教えにくるの?」と言われてしまいました。

 

その時は「私はアメリカ人です」と説明することができなかったんです。 やめてしまおうかと思ったこともありましたが、ある弁論大会で私の教えていた生徒が1・2・3位に入賞したのです。

 

そこで認められて、アメリカ人としてではなく 「リンダ」として受け入れてもらうことができました。私の韓国名はアニンジャというのですが、今でも韓国の友人からはアニンジャと呼ばれています。

 

韓国で3年過ごし、本当は韓国の美術方面に進みたかったのですが、父が体調を崩してしまったのでハワイに帰ってきました。その後、大学院はバーモント州の 「スクール・フォー・インターナショナル・トレーニング」という特殊な学校に進みました。

 

アメリ力の外務省のトレーニングなども行われていた学校で、有名ではないけれど知っている人は知っているという大学です。

 

アメリカの名門校でも奨学金が貰えることになっていたので、家族からはコロンビアに行くように言われていたのですが、本当の教育というのは名前ではなく 「自分が学べるところ」だと思うんです。

 

すごく前向きな学校で、集中的に勉強したらその後は社会に出て働きながら論文を書かせてくれました。 大学院は1年で終ってしまい、どうしようかとまた考えたところ、今まで一人で日本で生活したことがなかったことに気づきました。

 

そこでハワイ大学の姉妹校である金沢工業大学に行くことになり、ESLプログ ラムを築きあげました。金沢では3年ほど過こしました。 主人の専攻は仏教哲学で、コロラド大学の第一期の交換留学生として京都の大谷大学で勉強していました。

 

主人は大学でスリランカのお坊さんと知り合い、本当の仏教が残っているスリランカに行き、そこで私たちは婚約しました。子供を育てるにはハワイが良いと思い、ハワイに戻ることになりました。

 

1984年に結婚したのですが、知り合ったのは1975年ですから9年待ってくれたことになりますね。