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パナホーム・ コンストラクションパナ・プラミング 代表取締役 ビクター 穂波経孝さん

Bynikkansan

6月 24, 2011

「穂波」という名字に聞き覚えはありますか? 穂波家とは、なんと天皇を4人も輩出している皇族に縁の深い公家の一族です。穂波家の末裔であるビクタ ーさんは、ハワイ行きの船で生まれた日系3世。ベトナム戦争に従軍したベテランでもあり、現在は日本語OKの建築会社を経営しています。ペトナムでの体験を始め、色々お話しをうかがいました。

ライター:相原光

 


穂波家とは?

穂波家は、藤原北家勧修寺流(ふじわらほっけかじゅうじりゅう)の公家。御所の清涼殿にある殿上問に昇殿する資格を世襲した家柄。天皇を4人璽出している家系で、家紋は竹に雀。ちなみに京都御所蛤門古地図に勧修寺家、穂波家屋敷が記されている。また上杉家は勧修寺流の支流である。

 


11代 穂波経度(ほなみつねのり1837-1915)
*ビクターさんの曾祖父 穂波経度氏は、戊辰戦争で西郷隆盛と共に錦旗奉行(にしきのはたぶぎょう)として江戸城解放を行った人物。のちに元老院議官を務め、華族に列し、子爵に叙せられた。経度氏は、比叡山で修行を終えた僧侶を全国の寺社に振り分ける「寺社伝送」(武家伝送)という役割も担っていた。

 

この縁もあり、西郷隆盛が西南戦争で戦死したあと、ハワイ島コハラの本願寺へ福山分家穂波熊之丞(くまのじょう)を尋ねて渡っている。(寺社関連に穂波の分家があり、広島県福山、和歌山那智勝浦、福岡嘉穂郡、長野善光寺に分家があった。)大正4年(1915年)日本に帰国。


 

船で生まれた日系3世

僕は日本からハワイに向かう船の上で生まれました。母はアメリカ生まれで市民権もありましたが、(戦中市民権剥奪)日本で教育を受けるために家族と一緒に日本に引き上げていたんです。しかし第二次世 界大戦が始まったため、ハワイに戻る事も出来ず。

 

母は幸運にもアメリカに戻ることが出来ましたが、当時は戻りたくても戻れない人がたくさんいました。父はフィリピンで昭和20年、日本軍将兵として戦死しています。 僕はヌウアヌウで育ちました。家では祖 母も母も日本語でしたから、普通に日本語を話すようになりましたね。

 

マエマエ小、カワナナコア中、夏は葉山中(林間)。14歳の夏休みに、林間学校で初めて日 本に行きました。母のおじさんが明治神宮の宮司でしたので、葉山の御用邸の近所でお世話に成りました。その縁もあり、夏の間は毎年2-3ヶ月滞在していました。

 

初めて羽田空港に降りたとき、 「臭い」と思ったこ とを覚えています(笑)。確か1958年で、高度成長期のせいかヘドロの匂いがしたんで す。でも葉山はきれいでしたよ。 高校はマッキンレーに進みました。日本人もけっこういましたが、僕はローカルの グループ、日本人達(全員年上)の中にいたので色々、勉強、大人の遊び(飲酒)を教わるほど付き合いが有りました(笑)。

 

僕は9歳から大学の頃まで柔道をやっていました。アメリカ人は背が高くて足が長いから、内股を使われたら絶対に倒されち ゃう。だから先に向こう座を蹴っ飛ばして内股を受けないようにしてました(笑)。倒されたら寝技に持ち込まれちゃうでしょ?寝技をやってると耳がつぶれちゃうから、僕は寝技はやらないようにしてました。寝技に持ち込まれたらすぐに 「参った」(笑)。

 

その頃僕は5フィート70インチ、 780パウンドだった。 大学の専攻はメカニックエンジニア(理工学土)。高校生の頃配管の会社でアルバイトをやっていたんです。だから配管のことなんかは結構分かっていた。その頃日系人の子供は、学校の先生か弁護士かエンジニアになれと言われていた。

 

弁護士や先生は向いてないと思って、それならエンジニアがいいかなと。高校生の頃は、パイナップル工場でもアルバイトをしましたけど、時給は配管工の方がよかった。パイナップル工場が時給60セントくらいのとこる、配管工は90セントもらえましたから。小遣いは一週間に5ドルくらいだった。

 

大学に行くためにお金を貯めようと思ってアルバイトして、3年で1000ドルくらい貯めました。ハワイ大学ではメカニックエンジニアのコースで3、4年生はロスのカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に行きたくて、高校時代から他の大学に行こうと決めていた。

 

高校のうちにハワイ大学の夜間部に通 ってすでにいくつか単位を取っていたので、高校を卒業してから1年はトラック(イ一グ ルマカロニ、バロン稲葉氏会社)で運転して学費を貯めました。あまり母に負担をかけたくなかったので、学費のことを言いたくなかったんです。

 

そういうわけで、カルフォルニアの大学に進学しました。大学に入ってから友人(ケーシー高柳氏)に 「草刈はお金が儲かる」と教えられ、貯金を下ろしてトラック、トラクタ一を買って僕もガーデナ一を始めました(笑)。庭が広いからトラックを使わないと草刈ができないんですよ。

 

大学3・4年は学校に行きつつ友達と一緒にガーデナ一をやって、1年8 ヶ月でトラックは6台に増えました。時給1 ドルくらいの時代に、1日50ドル稼げたわけだから、すこくいい仕事だった。 4年の終わりにドラフト ・ ノーティス(徴兵命令)が来ました。

 

当時の徴兵制度は18歳以上が対象で、拒否はできない。大学に入っていてC以上を取っていれば、学校に通い続けることができるけれど、C以下になるとドラフトノーテイスが来る。僕は草刈をやりながらCを取ろうと頑張っていました。

 

 

 

体格がよかったので海兵隊に勧誘され、ベトナム戦争に従軍することに

 

結局、大学卒業後にハワイに戻り、フォ ート ・ デ・ルッシーで身体検査を受けることになりました。 ジャパン ・ ボブラー(日本育ちの人のこと)といってとぼけようと思ったけど駄目だ った(笑)。

 

母に 「醤油を飲んでいきなさい」 と言われて本当に飲んだら血圧が極端に上がつてしまい、 「血圧が高過ぎるから動かない方がいい」と診断されて、2日間泊まることになってしまった。でも2日後には血圧は下がってしまった(笑)。

 

英語が分からないから試験が受けられないとも言ったんだけど、入院していた2日の間に高校・大学の成績も調べられてしま ったからもう逃げられない(笑)。身体検査で並んでいたら、海兵隊の募集官の日系のオ オシロ軍曹がやってきて体格がいいから海兵隊に勧誘されてしまいました。

 

船酔いす るから駄目だと言ったんだけど、船にはほとんど乗らないっていう。大使館の警備の仕事で日本にも行けるというので、それなら入ってみようかと試験を受けて受かってしまった。その時は海兵隊のことなんてほとんど何も知らなかったんです。

 

陸 軍に行けば2年で済んだんですが、海兵隊は4年です。でも聞き方がトリッキーだったんですよ。 「4か6か、どっちがいい?」 と聞かれたんで、少ないほうがいいと思って答えたら、4は4年で6は6ヶ月の予備軍の意味だった(笑)。

 

そのときハワイから海兵隊に入ったのは、13人。7月4日、下着だけ持ってヒッ力ムに集合し、飛行機でサンフランシスコのエアベ一スヘ、そこから汽車でサンディエゴ、ノースカロライナのパリスアイランド、バージニアのクアンテコまで行きました。

 

そこでトレーニングを受けた。これがもう大変だった。基礎訓練、射撃訓練、戦闘作戦など全部教わり、 星を見て今どこにいるのかを地図、コンパスで判断するという訓練なんかも受けました。軍に入ると適性検査があって、それで色んな部署に振り分けられます。

 

全員基本戦闘兵です が、個々のMOSで郵便局員や事務的な部署もある。僕は工兵関連情報部で、爆発物関連の部署に配属されました。 そのトレーニング が終ってから4週間の休暇でハワイに帰 ってきました。2週間目にリコールがあって、パールハーバーの海兵隊基地に行き、 2日後の船で日本に行くよう命令され、横浜経由で沖縄へ行きました。

 

それが65年の初め。まだベトナム戦争は始まっていなかった。沖縄でジャングルトレーニングを受けて、大統領命令で5月6日にダナンとチ ュウライに上陸することが決まった。上陸 する時は、一番最初に海兵隊が上陸して、その後に後方軍が入ってくる。

 

海兵隊は約30万人で、日本の自衛隊くらいしかいないんです。海兵隊の中に陸・ 海・空すべてが含まれています。戦車部隊もいれば、航空隊、ヘリコプタ一部隊もある。海兵隊ひとつで戦闘部隊なんです。大 卒の場合は二等兵で入隊してから試験を受けて、士官学校でトレーニングを受けると少尉任官で出兵となります。