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【インタビュー 輝く人】声楽家 飯島俊美さん

Bynikkansan

6月 8, 2013

 2009年12月に悪性腫瘍が見つかり、年を越せるかわからないという容態から今日に至るまで、辛い闘病生活を笑顔で乗り越えて来た飯島俊美さん。日刊サンのコラム『歌とハワイは特効薬♪』でもお馴染み。声楽家として歌に生かされ、大好きなハワイヘ行くことでパワーチャージをしている彼女は、、病の根治に向かいながら、ご主人の良一さんとともに同じ状況の人とその家族ヘエールを送る、今輝く人。

ライター :みなみようこ

 

辛い日々を過ごすなら同じ時間を笑顔で過ごそう

風邪すらひかない私が癌患者になった

俊美さん

声楽家として、NHK学園で講師を務め、 2009年の5月にNHK学園の演奏会に向けて練習をしていた時のことでした。声が出なかったんです。でも、それは自分の練習不足だからと思い、演奏会は無事に成功したのですが、普段の生活も息切れがするようになりました。普段は5分で歩けるところにも30分以上かかり、背中を押してもらわないと前に進まない状態でした。それまでは風邪もひかないくらい健康だったので、運動不足と暑さのせいだと思っていました。

 

そんな私を見て夫が病院に行くように強く言い、病院は苦手だったのですが渋々行ったところ、採血の結果で言われたことは、病院が始まってから歴代2位のヘモグロビンの数値の少なさだということでした。富士山の頂上で暮らしているのと同じ状況で、救急車で来なかったことを驚かれました。すぐに婦人科に行くように言われ、12 センチにもなった子宮筋腫があることがわかり、手術をすることになりました。その時点で7月だったのですが、ヘモグロビンの数値を増やしながら仕事納めを待って、12 月に入ってから手術を受けました。

 

子宮全摘の手術を受けたのですが、悪性腫瘍が見つかり、わずか1週開後に、今度は両卵巣と体網を摘出する手術を受けました。手術後、身の置き所がないとはこのことかと思うほどの、のたうちまわる痛みが1週間以上続きました。

 

良一さん

病名は子宮平滑筋肉腫で、この癌の5年後の生存率は7%だと、1回目の手術の後に告げられました。歴史のある病院ですが、過去10例しかない特別な癌で、12月いっぱい命がもつかわからない。もったとしても翌年の桜が見られるかわからないと言われました。まさかという気持ちと同時に頭の中が真っ白になりました。先生の部屋から病室までの短い距離の中で、本人に話すべきか迷い、涙がぽろぼろ出てきたのですが、看護師さんと話していたということにして、時間を置き、涙を拭いて気持ちを整理した結果、黙っていることにしました。

 

妻の精神力の強さはわかっていましたが、言えません でした。それまで嘘をついたことは1回もありませんでしたが、その時初めて妻に 「よくなるから。」と嘘をつきました。 どうしようもない苦しみの中で、とにかく 1分1秒でも長く妻のそばにいたいという気持ちだけがはっきりしていました。本来、産婦人科には男性は泊まれず、個室がない病院でしたが、お願いをして簡易ベッドを入れていただきました。除夜の鐘を聞けるかわからない状況だったので、24時間一 緒にいたい、やれることをしてあげたいという気持ちだけで、何も冷静な判断はできませんでした。

 

 

鏡を見る時は「笑って!」笑顔で気持ちが変身できるから

俊美さん

手術の後は自分との闘いでした。仕事があるはずの夫がずっとそばにいることがおかしいと気付くこともできませんでした。 あまりの痛さで眠れず、疲れ果てて一瞬眠れそうになる時に、一度だけ「このまま死ねたら楽なのかな。」と考えてはいけないことを思ったのもこの時です。すぐに抗がん剤治療が始まりました。食べられないのに吐くほど辛いことはない んです。抜糸もされていない状況で、例えようのない痛みが続きました。自分の経験からは、出産した時の痛みは蚊に刺されたくらいのものでした。出産と違って、ゴールが見えない中で意識も朦朧としていました。部屋の中はビックリハウス状態でくるくる回っているのです。

 

ご飯は点滴、シャワーもお手洗いも1人では行けませんでした。 そんな中でも鏡を見る時には笑わなくちゃ!と思っていました。自分の落ち込んでいる顔を見るともっと気持ちが落ち込むので、自分に鞭打つ形で 笑って!」といつも話しかけていました。泣けば辛さが取れるのなら涙が枯れるまで泣こうと思いましたが、そうではないので、同じ辛い時間を過ごすのなら、笑顔で気持ちが変身できる。先生や看護師さんたちには辛い時には辛いって言っていい、そんなにニコニコしていなくていいと言われたのですが、私はこの方が精神的に楽だったんです。

 

 

仕事が私を生きさせてくれている

俊美さん

子どもの頃、NHKテレビでピアノコンサ ートを見た時、ピアニストがピンク色のドレスを着ていて、音楽を目指せばドレスを蒼られると思ったのが声楽の道へ入るきっかけでした。そして6歳の時にピアノを習いたいと両親に言ったんです。

ミッションスクールだったので、中等部に入 った時に学校の聖歌隊でNHK合唱コンクールに出場する機会がありました。ステージには限られた人数しか上がれないのですが、中学1年生の3人に選ばれて、私って 歌がうまいのかな?と思いました(笑)。この頃から前向きだったんです。 その後、手が小さくてピアノには限界があるのを感じたこともあって、本格的に声楽を習いました。それから目標に向かって勉強に励み、国立音大に行って、声楽家になり、教職もとって、指蒋もしていました。 NHK学園 「みんなでハーモニ一」の声楽講師として今年で9年目を迎えました。一度も休んだことがなく続けてきたので、病気をしても休むことは考えられませんでした。

 

歌は自分が楽器です。歌う時に怒って歌 うことは発声上ありえないんですよ。口角が上がつて、姿勢もよくなり、お腹から声を出すので心身ともに健康になります。シニア の生徒さんは薬を服用されている方も多いので、新しい講座が始まる時には「薬よりも一番自分の心と体に響く、癒しになる、元気付けてくれる歌を探してください。」とお話しています。

 

こう言い続けている私だからこそ、生徒さんたちに病気のことは言えませんでした。 12月に手術をして入院中、1月2週目と4 週目にNHKの講座のお仕事が入っていました。病院の先生に、年明け早々の講座を休むわけにはいかないと頼んで仕事へ行きました。ピアニストの和子さんだけには本 当のことを話したのですが、それ以外は子宮筋腫で数日前に手術をしたということにして、マスクをして座って指導させていただきました。 生徒さんたちは無理して来なくてよかったのにと優しく迎えてくださいました。

 

1月の冬らしい落ち着いた色のファッションを着ていた生徒さんたちは、その次の講座には、先生に元気になってもらおうと思ってと、赤やピンクの明るいセータ一を着てこられるようになったんです。それまでは、私がみなさんに元気を与えていると思っていたのですが、みなさんに元気をいただいているんだと思いました。 どんなに辛かった時でも、仕事に行くと痛みや吐き気が止まりました。つい1時間前まで嘔吐して、体をくの字に曲げていたのに、講座では先生としての私がいて、今までにない極上の笑顔でいる。信じられないほど背筋がピンと伸びて、楽譜を見ながら 歌っているんです。「あぁ私歌っている。生きているんだ。」と感じていました。

 

そして、仕事が私を生きさせてくれていると思いました。仕事を放棄してしまったら、気分的Iこは楽になるかもしれませんが、私が色あせてしまう。頑張れる目標が全部失われ、ベッドに寝付いてしまい、ただうつの状態だけになってしまったのではないかと思います。 病院から仕事へ行き、達成感の気持ちをまといながら病院に戻り、パジャマにな った瞬問に現実へ戻るのです。不思議な力の魔法にかけられて動かされているというか、神がかりだったと思っています。

 

良一さん

通常あれだけの手術をすると3ヶ月は絶対安静なのですが、手術から3週間後には 立って歌を歌っているという、普通なら考えられない状況でした。 その段階では妻の死を党悟していたので、除夜の鐘を聞けてまずは1回ほっとしたところで、次は桜というリミットがありました。その前の歌の指導だったわけで、はじめは反対でした。余命を告げても、自分の中で消化してしまうと思うほど強い性格を持っているのはわかっていましたが、歌に対する情熱信念、歌そのものが彼女の人生ですから、万ー歌うことによって、命が早まってもやはり思いっきり歌わせてあげたい、思いきり仕事をして最後まで輝かせてあげたいという気持ちでした。

 

 

癌友との出会い

俊美さん

1月の中頃には、抗がん剤の最も致命的な副作用である脱毛が始まりました。何気なく髪をかきあげると、ぽろぽろと抜けていきました。思い出したくないほど辛いことで、その時だけはこわくて鏡を見ることもできませんでした。 ふと外を見ると雪が降っていたので、思わずベランダに出て手をかざしたんです。外に出たのは久しぶりで、ひんやりした空気が私の気持ちをクールダウンしてくれました。降っている雪とその結晶を見ていた時、余命のことは知りませんでしたが、このまま悪くなっていったらこの雪を見るのは霰後なのかなと思いました。それでも、泣いていても仕方ない、同じ時間を笑顔で過ごすんじゃなかったの?と自分に問いかけていました。夫にも、よくなっている姿を笑顔で私なりに伝えたかったんです。

 

次の講座の仕事ではウィッグデビュ一をしました。ウィッグであると気付かれても「おしゃれで!」と答えていました。髪の毛の次は眉毛、まつげ、そして体中の毛が抜けました。髪の毛はウィッグをかぶって、眉毛を描き、つけまつげをして、メイクをしていくと健康だと脳をだませて、錯覚していくんです。鏡の前で総チェックをして笑顔で 「大丈夫。がんばれるよ!」と自分に言って、背筋を伸ばして出掛けていました。

 

ある日、病院の先生に呼ばれ、抗がん剤を受けるにあたって不安を持っている患者さんが話を間きたいと言っていると話されました。それが癌友(がんとも)と呼び合う利津子さんとの出会いです。 彼女には、これから起こりうる副作用の話をしました。彼女にとっても間違いなくシ ョックが大きいと感じられたので、かぶっていた帽子を脱いで、 「髪の毛はなくなってしまうけれど、今はおしゃれなウィッグがあるから!」などと話しました。彼女に話す時は自分にも言い聞かせていました。

 

周りには言っていなかったこともあって、癌の方と友達になるということはなかったので、同じ悩みを包み隈すことなく話せる彼女との出会いは私にとっても大きいものでした。 それ以来3年間毎日メールをしています。何を書くわけではないのですが、おはよう!から始まって、必ず文の最後には「今日 も極上の笑顔で元気に行きましょう!」と。ただそれだけの文を打ち込むことによってお互いが元気になれるんです。同時に、元気でいることを確認し合っています。