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【インタビュー 輝く人】リー優子 さん

Bynikkansan

7月 26, 2014

【人生を180度変えた娘の心臓病】

— 長女のまりあちゃんは重い心臓病だったそうですね?

1ヶ月の検診で突然宣告されました。「重度の心臓病があり突然死が考えられますのでこのまま入院手続きをして下さい」と医師が淡々と私に言ったのを今でもよく覚えています。毎日、毎日、母と一緒に泣いていました。私が産んだ子が何で死ななきゃいけないんだろう…そればっかり考えていて、暗いトンネルの中にいるようでした。どんな検査をしても治る可能性はなく、100%助からないと言われ続けましたから。

 

 でもそれは今解っている医療の範囲であって、何か方法があるんじゃないか、解明できない事もあるんじゃないかって思っていました。私が出来る事は何でもしよう、そう思って当時は医学書を読みあさりましたね。色々調べていく中でその分野でとても有名な当時、国立小児病院の百々先生がアメリカの研究から戻られたのを知って何のつてもなかったんですが直接連絡をとりました。そしてトントン拍子に話が進み、アメリカで心肺移植手術を受けることになりました。1%の可能性があるなら賭けてみようと思いました。選択肢があるならやってみよう、その思いだけでした。子供は絶対に助かると信じてお任せしました。 まりあは小さな体で開胸という6~7時間の大手術を乗り切り奇跡的に大成功しました。当時は「ミラクルベイビー」と呼ばれていましたね。

 

 彼女の病気は死にたいと思うくらい辛い体験でしたが、彼女の為にしっかりと生きたいと思わせてくれるものでしたね。私の人生を180度変えましたよ。わがままな27歳の私を普通の27歳に戻してくれました。毎年彼女の誕生日を迎える度にあの頃の事を思い出して泣かずにはいられません。  

 

「まりあ」は私にとって人生最大のプレゼントです。

 

 

— ハワイに移住したきっかけと今のご主人との出会いは?

まりあの2年後に次女が産まれました。まりあは元気になりましたが、日本では心臓病だった子供を受け入れてくれる幼稚園がなかなか見つからなかったのでインターナショナルスクールに通わせていました。そのうちにアメリカ移住を考えたんですが、コンサルタント業者に2度も騙されてしまって叶いませんでした。そこで、フランスに憧れがあったこともあって、比較的ビザが取りやすいと言われていたカナダのフランス語圏を目指しました。子供達の移民ビザは難しいと言われましたが、何とかカナダで最年少ビザを取得することができ、ウィニペグに移住しました。暮らしやすかったですよ。でもとても退屈でしたね(笑)。楽しみは夏休みのハワイでした。ハワイで今の夫ジェームスに出会って2度目の結婚することになり、それを機に2005年にハワイへ移住することになりました。

 

 彼は当時、医院で雇われて働いていましたが、私は「あなたならもっと成功出来るよ」って独立を後押ししました。彼は独立するとしてもその医院の近くだと、20万ドル(約2000万円)程のペナルティを払わないと開業できないので迷っていましたが「今の20万ドルは大金だけど将来の事を考えたら払う価値はあるんじゃない?」って言いましたね。そして、2006年に独立しました。2〜3年は本当に大変で電話応対から受付、何でも二人でこなしていましたよ。おかげ様でローカルとは違うスタッフ教育が功を奏し、患者さんはどんどん増え、無事に8周年を迎えることができました。

 

 

【36歳から独学で掴んだ未来】

— 美容の仕事を始めたきっかけは?

結婚して周りからは仕事をする必要がないと思われていましたが、彼の年収を聞いて正直、足りないと感じていました。私がもっと稼がなきゃ、と思いましたね。

 

 もともとネイルやエステなど美容には興味があったので、何か自分がワクワクできるような事をやってみようと思ってジェームスが独立したのと同時期に「J美容クリニック」を立ち上げました。私は経営だけできればと思っていたので美容ライセンス保持者を雇っていました。でもみんなプライドが高くて自分が取った資格の技術を他のスタッフに教えようとしないんですよ。時間もお金もかけて努力したから、と。私だったら他の人がなるべく苦労しないようにシェアしようとするのに。それで自分で美容系の資格を取得しました。自分ができれば教えてあげられますからね。

 

 今では沢山の良いスタッフに恵まれ、皆とても一生懸命働いてくれています。私より彼らの方がしっかりしていて、私が気づかないことも親身に働いてくれて、本当に嬉しい限りです。毎日心からスタッフに感謝しています。 私は本当にいつも周りに助けられているなと思います。

 

 そして今、嬉しい事に長女、次女が「ママの仕事を継いでみたい」と言ってくれています。私の若い頃と同じようにいろんな経験をしてもらいたいので「これはやっちゃダメ」ということはあまり言わないようにしていますね。不思議な事に、二人ともモデルに興味があってオーディションを受けたりしています。まだ学生ですので、少しずつですがお仕事をさせてもらったりしています。母親として二人の将来が楽しみで仕方ありません。

 

 

— 不動産の仕事も始められたそうですね。

ハワイで初めて家を買おうと思って沢山見ているうちに家を見るのが好きになっていきました。見ているだけでワクワクしましたから。不動産業が向いていると周りの方に言われたこともあって、将来自分が買ったり売ったりする時にも役に立つかなと思って、いつかやってみたいなと思っていました。

 

 ライセンスを取ったのは3人目の長男が産まれて10ヶ月の時でした。美容の仕事が軌道に乗り始めた頃に思わぬ妊娠が発覚。正直産むのをためらいましたが、姉から「世の中には欲しくても産めない人もいるのよ、もしも育てられないなら、私が育ててあげるから」と言われて出産を決意しました。出産の1週間前まで働いて、出産後2週間で仕事に復帰したくらい本当に忙しかったです。産んだ後はもっと大変で、ちゃんと面倒をみてあげることもできない状況で、どうしていいかわからず 困り果てていた時、日本にいる姉が「ハワイで世話をすることはできないけど、日本に連れて帰ることはできるよ」と言ってくれて。他に方法が見つけられなくて泣く泣く長男だけ1ヶ月程預けることにしたんです。仕事が理由だったとしても母親として自分が許せなかったですね。だからこの与えてくれた時間で何か一つ自分にチャレンジしようと思ったんです。離れてしまった長男に胸を張ってがんばったよ、と言える何か証を残そうと。それからは仕事が終わったら一目散に家に戻って長女と次女の世話をしながら不動産公認取引士の猛勉強をしましたね。そして何とか長男が戻ってくる数日前に無事に資格を取得することができました。

 

出産後モデル業を再開して いた30歳の頃

 

 そう言えば、以前にも猛勉強したことがありました。ハワイ州のコスメトロジーライセンス取得です。長男の妊娠初期でつわり真っ最中でしたし、まだ英語も全くわからない時に独学で勉強しました。自分が免許を取らないと仕事が成り立たないという状況だったので必死でしたね。思えば長男を産んでからすべてがうまくいっている気がします。

 

 よくどこで英語を学びましたか?って聞かれますが、留学をした事もなければ英語学校に行ったこともなくて、独学というか、友達から学んだというか、子供達から学んだというか…私は耳からしか覚えられないタイプのようで音だけで覚えましたね。今では美容や耳鼻科の通訳ができるようになりました。いつかアメリカの医療現場でも自分なりの恩返しができたらと思っていたので、患者さんに「本当にありがとう」とお礼を言っていただく度に幸せな気持ちになります。