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【インタビュー 輝く人】ハノ・ナカ(Hano Naka Inc.)社長/牧師/校長 中林義朗さん

10歳で母を亡くし、伯母に預けられ、18歳でアメリカに留学。実父の会社が閉鎖し、アメリカで道を拓く決意をする。就職した日系商社の転勤でハワイやロサンゼルス、香港、さらに中国へ行き、2000人の社員を持つ会社社長となるも、ハワイへ戻ったところ、全財産を失う経験をする。その後クリスチャンになり、牧師を目指し、勉強をしながらウェイターから再スタート。47歳でビジネス牧師に就任。本当の意味での『成幸』を実践しながら伝え、それを目指す人と共に歩く、輝く人。
(このインタビューは日刊サンに2014年2月に掲載されたものです)

 

本当の『成功』とは バランスの取れた 『成幸』を手にすること

奥さんのタマーさんと

 

中林義朗(なかばやし・よしろう)
1963年静岡県御殿場市生まれ。10歳で母が他界、横浜の伯母の家に預けられる。関東学院六浦高校卒業後、LAへ留学。日系商社に入社し、1988年にハワイ支店長就任、その後香港へ転勤、30歳で中国支社長に就任。1998年にハワイへ帰国し、2001年から神学校での牧師志願コースをはじめ、レストランで働きながら勉強を続け、2010年47歳でInternational Japanese Christian Churchのビジネス牧師に就任する。2011年にハノ・ナカInc設立、ショールームを開設.。現在50才で100%牧師、100%ホームスクーリング校長、100%経営者。

 

男としてのスタートを切るまで

生まれは、富士の麓である静岡県御殿場市です。朝起きたら目の前に富士山がド~ンとあるところで生まれ育ちました。夏は真っ黒で引き締まって見える富士山も、冬になると雪が降り積り、真っ白くとても大きく見えるのです。そんな大自然の素晴らしい環境で育ちました。  

一人っ子ですが、母は体が悪く、医師にこの子を産めば長生きできないと言われ、それでもいいと母は、私を産んでくれたのです。言われていたとおり、母は私が10歳のときに他界しました。病弱な母が健康な私を産んでくれたことを本当に感謝しています。  

父はテイラーをしていて、御殿場に工場を持ち、ピエールカルダンの革手袋を作ってアメリカに輸出していました。当時1ドルが360円で、日本で物を作る時代だったため、ビジネスはかなり忙しく、母の死後、父の会社は大阪に移転することとなりました。ビジネスと養育の両立に悩んだ父は、話し合いの結果、私を横浜の伯母の家に預けることになりました。そこには18歳と20歳の従兄弟がいて、10歳の私は三男坊のように可愛がられて育ちました。男としての生き方を、従兄弟が良いことも悪いことも、教えてくれました。ハハハ。でもとても楽しかったです。  

18歳のときにアメリカに留学をしました。父の会社はアメリカ人とビジネスをしていましたので、息子には英語を話せるようにさせて、できれば継いでほしいと思っていたのでしょうね。小さいころからアメリカに行くんだと決まっていたような感覚です。  

でも人生そんなにうまくいくものではなく、留学から4年後、父の会社が閉鎖へと追い込まれました。1ドル360円から、260円、180円と円高が進み、日本で物を作る時代から、中国の時代へと移り変わって行ったのです。  

それで、これ以上学費も生活費も送れないから帰ってきなさいということになりました。22歳のときでした。そのとき、男としてどうすべきかと考え、アメリカでチャレンジして、自分の人生を切り拓いて行く道を選びました。それまでは私は社長の息子というだけで、もしもそのまま社長になったとしてもただの2代目だったわけですよ。ここが男としての人生の本当のスタートでした。  

自分は何のために生まれてきたのか、人生これから何をしたら良いのか。

 

中国で社員2000人企業の社長に

アメリカでの生活は厳しいものでした。英語が話せないので、食べたいものも食べられず、銀行に行っても「あなたが何を言っているかわからない」と言われ、自分のお金すらおろすことができないこともありました。ハワイと違ってアメリカ本土での日本人は本当のマイノリティで、偏見もいっぱい経験しましたし、たくさん嫌な思いをしました。  

しっぽを巻いて帰ることもできましたが、背水の陣で死ぬ気でやるしかないと頑張ったものです。人間はそういうときに本当の力が出るものなんですね。必死になって英語を耳で聞いて、口から出して真似し、その反復でどうにか生活に困らない英語を取得しました。ある日、アメリカ本土のスキー場でリフトに乗り合わせた他州からのアメリカ人に、あなたの英語はカリフォルニアアクセントがあると言われて、とても嬉しかったのを今でも覚えています。  

1986年に日本の商社と出合いがあり、働かせていただけるようになりました。1988年25才の時、ハワイの支店長に就任し、1993年30才の時、香港に転勤となり、翌年、中国の新会社設立のタイミングにのって支社長に就任しました。自由市場経済で中国が門を開きはじめた時代で、中国に初めてマクドナルドができた年でもありました。中国での私の仕事は、製造工場と販売代理店の管理がメインの仕事で、商品が爆発的に売れ、2000人の社員を持つ会社へと急成長しました。中国全国に30支店が設立され、どこの会場に行っても1000人くらいの人が集まり、警察官を呼んで会場の整理をしてもらっていた程です。  

私のもうひとつの大切な仕事は、政府の役人とお酒を飲むことで、毎晩が宴会でした。ハワイアンの妻を一緒に連れて行っていたのですが、彼女は宴会で私の隣りに座って、いつもニコニコしていたんです。彼女が喜んでいるものと思っていました。ところが、彼女は祈っていたというのです。「このまま毎日お酒を飲み続けていたら死んでしまう。この人が1日も早く神を信じてクリスチャンになりますように。このめちゃくちゃな生活が変わりますように」と。聖書には、「神の言葉に従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって旦那が神を見るようになる」という言葉があるのですが、男はガミガミ言っても遠ざかるだけなんですよね。きっと「いつまでお酒を飲んでいるの?」と言われたら、私もうるさいなと思ったでしょうね。  

後でわかったことですが、彼女は笑顔で座っていながら、私のいないときに聖書の前で神様に祈っていたのです。その聖書は涙でぐしょぐしょごわごわになっていました。  

秘書は7人、運転手、カバン持ち、通訳もいて、家にはお手伝いさんもいるという、雲の上のような生活でした。妻は欲しいものはなんでも買えて、なんの不自由もない生活だったのですが、あまり幸せそうではないので「何が問題なの?」と感じていました。でもあまりの忙しさでそれを気にしている時間もありませんでした。そんなある日突然「ハワイに帰ろう」と私が言ったのです。妻は驚いていました。今思えば、神様が妻の祈りに応えて、私の良心に語りかけたのだと思います。

中国に行った当時(1993年)

 

ハワイですべてを失う

妻の家族はハノハノといって、カメハメハ大王の直系で、妻は80%ハワイアンの血を受けています。義父から誘いがあり、ハワイ王朝から受け継がれた土地を開発する手伝いをすることになりました。ところが、約束の資金が動かず一部の土地を失ってしまう災難にも見舞われました。開発準備をしている約5年の間に、私が蓄えていたお金もほとんど投資をして、使い果たしてしまいました。  

中国から帰ってきてからどん底の5年間を経験することとなったのです。収入がないばかりだけでなく全財産を使ってしまったわけですから。今考えてみれば全て失うことも神様の計画であったと信じます。お金があるうちは神の存在はわかっていても、神様の助けは必要ありませんでした。しかし、お金がなくなってしまうと、すがるものがなく、これからどうするのか、将来にも不安を持ち、そこで初めて私は、神様に助けを求め、もっと教会で話しを聞いてみたいと思うようになったのです。日本のビジネスの世界では、儲かれば幸せになれると習い、信じて、頑張ってきました。でもそれはあまりにも偏り過ぎた教えであることに気付かされたのです。

 

人間の成功とは何か

人間の成功とは何か。「成功」ではなく、幸せに成る『成幸』が本当の成功だということを聞きました。この教えは聖書の教えに相通ずるところがあり、バランスの取れた成幸でなければ本当の成功と言わないんですね。  

まずは自分が実践して、それを教える牧師になりたいと思うようになり、中野雄一郎牧師が学長を務められるJTJ神学校で牧師志願コースの勉強をはじめました。中国での妻の祈りがあまりにも強烈で、私はクリスチャンになっただけではなく、牧師にまで導かれてしまったのです。  

勉強をはじめたその間に、開発の話もなくなり、住んでいた家も出なくてはならなくなりました。ありがたいことに、そんな私たち家族を両手を広げて迎えて下さった教会員のお宅にしばらく住ませていただくことになりました。牧師になるために昼間は勉強して、夜はザ・カハラホテル&リゾートのレストラン「TOKYO TOKYO」で働きました。家族を養うために、夜の数時間で1日8時間働くのと同じくらい稼げる仕事ということで、このレストランでウェイターをしていました。  

ウェイターを4~5年、その後2~3年はマネージャーをしました。その店は、世界の大成功者が来られるレストランでした。エルトン・ジョン、ジョニー・デップ、ジョージ・クルーニー、ジェシカ・アルバなど誰もが知るセレブがやってきました。日本からの芸能人、ビジネスの成功者たちもたくさんご来店いただきました。  

ところが多くの方々があまり幸せそうに見えないのはなぜだろうか? お金も名声もあるけれど、何かが欠けている。本当の成功とは? と考えさせられたのです。中国で小さな成功を手にしてハワイに戻り、一文無しになり、ウェイターの仕事ではプライドを砕きに砕かれました。中国ではペンより重いものを持つ必要がなく、周りがなんでもしてくれた生活から、ウェイターでは「早くしろ。いつになったら出てくるんだ」とお客さんに怒鳴られ、すみませんと頭を下げる生活へ変わりましたから。  

それもこれから牧師になるために必要なプロセスだったのだと思います。過去の栄光を引きずるようなプライドなんて、この世の中で全く使い物になりません。特にこれから先生と呼ばれ、人前で話をする立場になる者にとって。  

 

聖書がいう成功は、神を第一に恐れて生きること。24時間誰も見ていなくても神は見ています。人を恨むようなこと、人を嫉妬する想い、心の中まですべてお見通しなのです。ですから、神を恐れて生きることができるようになると、誰に対しても親切になれ、二心のない生き方ができるようになります。妻が第二、子どもが第三、自分の健康が第四で、そのあとに初めて仕事が第五、そして趣味が第六。これが聖書のいうバランスのとれた生き方なのです。  

今、木曜の朝に私のオフィスでBible Business & Benefitというミーティングをしています。どなたでも歓迎で、教会の敷居が高いと言われる方々も集まっています。皆さん、自分もバランスを取れた生き方を手にしたいという気持ちで、コーヒーを飲みながら、話をしているんです。  

私は妻と毎週日曜の夜にデートをしています。私たちには8人の子どもがいますから、彼女は自分のために食事をする時間がありません。常に何かをしながら、子どもに食べさせたりしていますからね。日曜夜だけは自分のために食べる食事です。そして彼女の話を聞く、「棚卸の時間」で、夫婦の間で棚に上げた問題をなくすためのものです。普段、なかなか話を聞けないで「明日ね」と先延ばしにしていると、棚に上げた問題が増えていって、200問くらいになると雪崩が起きて夫婦間の大問題になります。もともと200問あった問題ですが、先日妻に「あといくつ残っていますか?」と聞くと、「2つ」と応えてくれました。(これは本当に凄いことです。)  

私はこれを実践しながら教えているのです。「人生のバランスの取れた成功をあなたが手にするまで一緒に歩きますよ」と、「自分ができるようになったら、今度はほかの人と一緒に歩ける人になってください」とお話ししています。  

たくさんの経験をしてきましたが、そこには喜びはありませんでした。中国であのまま社長をしていたら、次は自家用ジェット機を持つことでしか満足できず、終わることのない欲望との戦いの毎日になっていたでしょう。

社訓となっている「康楽」の書

 

20年間父を赦せなかった  

現在、8人の子どもと父と私たち夫婦の11人家族で暮らしています。10歳で母が他界したあと、私は横浜の伯母に預けられ、父は大阪に移動して仕事をしていましたから、親子はバラバラになってしまいました。子どもながらにビジネスが忙しいのだから仕方がないという理解はできました。それでも「自分を捨てた」という思いが心の奥底にはあり、20年間それを引きずっていましたね。  

あるとき、20人くらいの会合があって、そこで話をしなくてはならなかったのですが、仕事柄話をする機会も多く、話をするのは好きだったにもかかわらず、言葉が出てこなくなって話ができなかったのです。自分でもなぜなのかわかりませんでした。  

後に、牧師先生に「もしかしたらあなたは赦せない人がいるのでは?」と聞かれました。考えもしないことでしたが、言われてみれば、やはり父が赦せなかったのです。  

クリスチャンになって、父を赦しなさいという教えを受けたことが私の人生の大きな転機です。37~8歳のときでした。それまでは生涯一緒に住むことはないだろうと思っていました。でも、父は事業がうまくいかなくなって、一人で暮らしていて、弱ってきていました。私は父のすべてを赦し、私が市民権をとって「1人なんだから日本からハワイに来て孫たちと一緒に住まないか」と心から言いました。  

すっかり病弱になって杖をついて歩いていた父ですが、今は元気ですよ。今年80歳になるのですが、父を見ていると病は気からなんだということがよくわかりました。希望がない、愛がない、一人ぼっち。孤独は人間にとって一番よくないことなのでしょうね。大家族ですから、「狭いアパートでごめんね」と父に言ったら「何言ってるんだ。天国だぞ」と言われました。父は毎週日曜の夜、妻と私のデートのときに子どもたちに食事を作ってくれていますよ。  

私がクリスチャンになったことによって私自身が変わっただけでなく、家族も生きたのです。「神は私たちに耐えられない試練を与えず、脱出の道をも用意して下さる」とのお言葉通り、家を出なくてはならなかったときには、神様が私たちを快く受け入れてくれる家族を備えて下さり。また、父を呼び寄せる際グリーンカード取得に必要だったスポンサーも、神様が備えて下さいました。

 

8人の子どもの教育はホームスクーリング

8人の子どもたち

 

わが家には8人の子どもがいますが、学校に行っていません。ホームスクーリングで、自宅で勉強を教えています。アメリカは全国にホームスクーリングのアソシエーションがあって、何百万人もの生徒がメンバーになっています。インターネットにもカリキュラムがあったり、先生がいたり、教科書も数多くあります。年1回、プレイスメントテストという全国学力テストにパスすることで、高校を卒業するまでホームスクーリングが義務教育の一貫として国から認められているのです。  

私は算数と体育、社会奉仕を担当して、ほかは妻が教えています。毎朝2時間は私が子どもたちに勉強を教える時間です。8人いるから大変ですよ。子どもたちは教科書とノートを持って列を作っているので、「はい次、次!」と言いながら順番に教えています。  

母国語とは母の国の言葉であり、ハワイアンの妻を持つ我家は英語で教育をすると決めています。でも算数だけは九九を覚えさせたので「さざんがく、ししじゅうろく」などとやっているからおもしろいですよ(笑)。  

ホームスクーリングで教育をすることにしたのは、聖書をベースに教育をしたいからです。私たちはそれぞれに違うタレントが与えられています。ホームスクーリングの目的はそのタレントを見極めて磨くこと。不得意なことはそれでいい、得意なところを伸ばしてあげるという教育です。8人の子どもも大きく分けると2つのタイプに分かれます。例えば、ステージの前に出て賛美をしたり、マイクを持って歌ったり、ピアノやギターを弾いたりするのが好きなタイプと、後ろで音響や照明、録音などをしたいタイプがいます。そういう中で育つと自分がどちらのタイプがすぐにわかりますし、その見極めが親に課せられた責任で、後は磨いて上げるのです。

 

会社のモットーは健康と喜びを提供すること

3年前、47歳のときにInternational Japanese Christian Churchのビジネス牧師に就任しました。これまで人生を歩いてきて、何かが違うといつも思っていたのですが、イエス様と出会って今はとてもすっきりしています。生きる優先順位がはっきりしたことで、ラジオに出ても、インタビューでも、どんなときでも話ができるようになりました。  

ビジネスは、確かにお金も大切ですが、お金儲けが目的になってはいけません。聖書には「お金が悪いのではなく、お金を愛する心が悪い」と書かれています。どんな世の中であっても人が求めているものを提供した人がその時代の成功者となるのです。私の会社は、人が求めているものを提供しいていく会社です。オフィスには「康楽(こうらく)」という書が掲げてあります。これは1995年に中国にいたときに、ある書道家が書いてくれたものです。あのときから「あなたは健康と楽しさを提供する日が来る」ということだったのかもしれません。ずっと倉庫にしまってあったこの言葉を、ショールームをオープンしたときに掲げて、「人に健康と喜びを提供する」が会社のモットーになりました。もちろん、本当の喜びはバランスのとれた『成幸』から生まれてくるのです。  

不思議なことに、家族への時間を費やせば費やすほど売上があがって、逆に売上を追いかけはじめると売上は下がるんです。ハハハ。  

人生の本当の成功とは、バランスの取れた優先順位を追い求めることによって、与えられるものであると信じています。これからも、100%牧師、100%ホームスクーリング校長、100%経営者、でいきたいと思います。  

私の大好きな聖書の言葉 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい。」

 

<父・中林栄(なかばやし・さかえ)さん インタビュー>

洋服の直しをする実父、栄さん

 

日本では約10年間独りで暮らしていて、その時は仕事もなく、健康も害していました。60代は70歳まで生きられるかと思いながら過ごしていました。ところが、息子からハワイで暮らさないかと言われ、まずは3カ月間だけ、彼の家族と生活をしてみたら、そこには驚きがありました。クリスチャンである家族全員が本当に幸せそうだったのです。それで、ハワイに移住することを決めました。

ハワイに来て、クリスチャンになって人生が変わりました。人のために生きたいと思うようになり、心身ともに健康になりました。ハワイは気候も良くて、孫たちに囲まれての生活はとても幸せです。今年80歳ですが、このままではいつまでも生きられそうですよ(笑)。もともとテイラーでしたし、手先を使うことが好きで、ハワイに来てからは額縁を作っていました。今は息子のショールームの一角で衣服の直しをしています。最近は仕立ての注文も来るようになりました。こうして好きなことをすることで人のためになれる。こういうことをずっと続けていきたいです。

 

ライター:大沢 陽子(日刊サン 2014. 2. 22)