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『2019ホノルル歌舞伎』開催、喝采で御座りまする! 3月2日〜8好日

三代目、鳥羽屋三右衛門(とばやさんえもん)●長唄の唄方、歌舞伎邦楽部長や国立劇場養成課の講師も務めている

 

 今年3月、待望の『2019ホノルル歌舞伎』が上演される。日本からやってくるのは、父子4人揃って名跡を襲名した中村芝翫(しかん)さんと子息3人。そして長唄の人間国宝である鳥羽屋里長(とばやりちょう)さんら50余人という大一行だ。  この夢の大舞台を企画・実現させたのは、ホノルル歌舞伎実行委員長の鳥羽屋三右衛門(とばやさんえもん)さん。3年ほど前からハワイや日本で根回しをし、スポンサー探しから役者さんへの出演打診まで自らが行ってきた。  

 ちなみに三右衛門さんは父も祖父(芳村五郎治)も人間国宝で、自らも弱冠25歳で立唄(たてうた:歌舞伎の舞台で唄方の首席)を務めた長唄の名手である。お腹の底から湧き出るような声量と、悲恋から敵討ちまで唄い分けられる芸域は、すでに大輪の風格だ。  そんな三右衛門さんに、ハワイ公演を実現させるまでのエピソードと、歌舞伎に欠かせない長唄の魅力を聞いた。

(取材・文 奥山夏実)

 

長唄の名手は、ハワイラブのサーファー! 鳥羽屋三右衛門さん

 去年『2019ホノルル歌舞伎』キックオフの記者会見で、実行委員の伊藤康一総領事らと開催の経緯を語った三右衛門さんは熱かった。裏方のプロモーターではない、立派な表舞台の演者である御仁がなぜ、スポンサー探しまでしながら、この一大イベント開催に向けて奔走してきたのかフシギだった。 「ハワイが好きなんです、だからハワイに恩返しがしたくてね」  

 三右衛門さんはなんと、ハワイラブのサーファーでもあったのだ。 「ハワイで最初に歌舞伎が披露されたのは1964年。私の祖父と父もこのハワイ興行に参加しました。当時この歌舞伎はハワイ大学に建てられたばかりのケネディシアターで上演される予定だったんです。ケネディシアターは花道まで作れる設計で、海外で歌舞伎の花道が設営できるのは今でもここだけです。ところがオトナの事情なんですかね、実際に上演された会場はニールS・ブレイスデルセンターでした」  三右衛門さんの父、鳥羽屋里長さんと六世中村歌右衛門さんがレイを胸に笑っている写真が今も残っている。

「祖父も父もいっぺんでハワイが好きになったようです。私はこの歌舞伎公演の前年に生まれていて、5歳くらいから家族とハワイに来るようになりました。初めてワイキキの海でサーフィンをしたのが8歳くらいで、今もハワイに来るたびにロングボードを楽しんでおります」  15年ほど前のこと、三右衛門さんは喉の手術を受けて舞台で歌えない時期があった。その時、ハワイ大学の英語コースに3ヶ月ほど通っていた。早朝にサーフィンをするのが日課で、ある日、沖のポイントで大ケガをして、ローカルのおじさんに助けてもらったことがあったという。

「波に巻かれてボードのフィンで手首をざっくり切ってしまったんです。血まみれでビーチに戻ったら、知らないローカルのおじさんが近寄ってきて、ファーストエイドをしてくれて。すぐに病院の救急に行ったら、20針も縫う大ケガでした。ドクターからは、応急手当てが完璧だったから大事に至らなかったって言われて」  

 翌朝、三右衛門さんはビーチに行き、おじさんにお礼を言った。彼はライフガードの元キャプテンだった。明日から毎日来いよと誘ってくれ、三右衛門さんはローカルの仲間とサーフィンをし、いつしかお前はオハナ(家族)だと言われるようになった。 「ハワイでは親身にしてもらった思い出がたくさんあります。だからいつか恩返しがしたいと思っていました」

 

1964年、初のハワイ歌舞伎公演で。鳥羽屋里長さん(右)と六世中村歌右衛門さん(中央)

 

 

明治元年者から脈々と伝わる、 日系人の心と伝統をリスペクト

 

「ホノルルで歌舞伎公演をしようという話しは、3年ほど前から持ち上がっていました。去年はちょうど、ハワイ日系移民150周年の節目でもあったので。ハワイでこんなに日系人が活躍できているのは、元年者から脈々とつながる先人たちのおかげですもんね」  

 三右衛門さん自身、歌舞伎400年の伝統芸能を担う演者の一人として、礎となってきた先達への敬意は篤い。 「150年前の日本って、まだちょんまげに刀の時代ですよ。異国なんて想像ができないほど、情報もなかっただろうし。命がけの航海でしょう。そんな未知の世界に夢と希望をかけて海を渡った元年者移民の方々の、ハワイでの慣れない生活や重労働はいかばかりだったのか……」  苦労しながら勤勉に働き、日本人コミュニティを作り、日本文化を根付かせ、ハワイの人々と融合していった日系人。悲惨な戦争も乗り越えてきたその歴史。

「今の若い日系4世や5世の人の中にも、正座をして手をついておはようございますとか、ありがとうと挨拶ができる人がいてびっくりしました。日本人としての礼儀はグランマから習ったって。三味線やお琴が大切に飾られているお宅も拝見したことがあります」150年の歳月の中に脈々と受け継がれている祖国の心。 「去年、マキキの日本人墓地に行って、明治元年者の碑に花を手向け、ホノルル歌舞伎開催の報告とお参りをしてきました。拝礼したらね、風もないのに花がコトンと倒れてしまって。あれはご先祖が、おおよく来たな、歓迎するぞと迎えてくれたのだと、勝手に解釈しちゃってます(笑)」  

 日本人が大好きなハワイ、年間180万以上の人がハワイを訪れ楽しめるのは、こうした日系人の人々のおかげだと三右衛門さん。  ハワイの人がハワイ語やフラを大切にするように、日本人の伝統的な文化である歌舞伎の醍醐味を、ローカルや日系の人々とシェアしたいと語る。

 

長唄はフラと同じ口伝、 音で観る歌舞伎を楽しんで

 

人間国宝の父、里長さんと自宅で

 

「歌舞伎の“歌”は長唄をはじめとした音楽、“舞”は歌舞伎役者の演劇や舞踊、“伎”はそれを演じる技。歌舞伎は日本を代表する総合芸術です。歌舞伎はね、役者のセリフ以外にもいろんな音が楽しめるんです。唄と三味線で構成される長唄は、歌舞伎音楽の中核。舞台の下手に黒御簾(くろみす)という、観客から見えないところで演奏する、オーケストラボックスのようなスタイルで演奏する場合と、舞台のひな壇に座って演奏する場合があります」  

 黒御簾で使われる音楽は2000〜3000曲くらいはあると言われる。メロディーに乗って役者の演技をふくらませる唄もあれば、調子の良いお囃子(はやし)、雨風などの自然の音や、人の足音などを表す効果音、情感を盛り上げるBGM、唄ともナレーションとも聞こえる義太夫(ぎだゆう)の独特の節回しとか、ものすごく多彩。アナログなんだけどシュールでもあるのが歌舞伎音楽だ。

「西洋音楽のような楽譜があるわけでもなく、すべて口伝です。フラと同じですね。口伝で教わるどころか、父の時代は聴いて覚えなさいと言われていた。確かに頭で論理的に覚えるというのではなく、体に染み込ませていく感じです。単に優秀な歌唱や演奏技術ではなく、歌舞伎の演目に対する深い理解が必要だし、同じ演目でも役者さんごとに間や型が違うのでそれに合わせることもできなければなりません」  三右衛門さんは3歳の頃から長唄を習い始めた。

 

「最初はおばあちゃんから習いました」  祖母も長唄の杵屋栄和香(きねやえいわか)さんだ。 「父や祖父は少し唄えるようになってからと。段階的に餌付けされたんですね(笑)。高校生の頃は長唄が嫌で距離を取りたいのに、家族全員長唄一家ですから逃げようがない。大学に行く歳になってからは、やっぱり嫌いじゃないと自分の中の長唄の血を感じるようになりました」  父の里長さん、祖父の五郎治さん、そして三右衛門さん三人三様の声の持ち主というが、どちらかといえば三右衛門さんは祖父似なのだという。

「父に稽古をつけてもらい始めた頃、歌舞伎で有名な『勧進帳』の安宅の関のくだりを稽古してもらったんですね。♪旅の衣は篠かけの〜♪という長唄の出だしなんですが、何回やってもダメ出しで、しかもロジックで説明してくれるわけじゃない。毎日毎日同じところを2週間くらいやりましたが、ダメの連続」   

 10年くらいして父の伝えかった表現がやっとつかめたと語る。それくらい厳しい世界なのだ。 「祖父は孫可愛さで、ちょっと甘いかもしれません。裏ワザみたいなことを教えてくれたりね。祖父は舞台の本番前にコーラを飲んだりするんですよ。僕が25歳の異例の若さで立唄をやらせていただくことになった時も、目を細めて喜んでくれました」

 三右衛門さんにも8歳になる娘がいて、今は里長おじいちゃんが我先にと教えたがるのだという。孫には甘々なのだ。 「ホノルル歌舞伎で私は“音で観る歌舞伎”の話しをさせていただきます。中村芝翫さんの親子連獅子の舞台では、父の里長とともに長唄も歌います。観どころ満載の歌舞伎ワールドを存分にお楽しみいただけますよう、万全の準備をいたしますので、どうぞお誘い合わせの上お越しくださいませ」

 

 

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