日本の冬の風物詩、こたつ。こたつを出すことは冬の到来を意味し、春の訪れと共に取り払うことから、冬の季語にもなっています。そんなこたつの歴史は室町時代にまでさかのぼります。また、日本独自のものというイメージがありますが、実はアフガニスタンやイランでも似たような暖房器具が使われています。 今回のエキストラ特集では、ハワイの気候を束の間離れ、日本の冬のこたつ文化を垣間見てみましょう。
歴史
室町時代・江戸時代
火鉢は客用、コタツは家族用
こたつの起源は、約650年前の室町時代にまでさかのぼります。原型は囲炉裏(いろり)の上に櫓(やぐら)を組み、布団をかけたもの。その後、囲炉裏の周りに足を入れるスペースが作られ、現在の掘りごたつのような形になりました。江戸時代には、大勢が一度に入れる「大炬燵」というものもあり、冬の暖房器具として火鉢と共に使われていました。熱源は木炭、練炭、豆炭などで、炭の寿命を延ばすために紙や灰などを上にかけて使っていました。
この時代、お寺や武家では客用の暖房器具として火鉢が、家人用の暖房としてコタツが使われていました。江戸中期には、熱源に火鉢を使い、移動ができる置きごたつも一般化していきました。
明治時代
機能的な掘りごたつを作ったのはイギリス人
置きごたつが一般的だった1909(明治42)年、イギリス人の陶芸家バーナード・リーチが、正座が難しいため、東京・上野の自宅に腰掛け式の小さな掘りごたつを作りました。江戸時代の大炬燵と違い、熱源を置く段が足を下ろす段よりも深く作られ、耐火機能が高いことが特徴でした。熱源である炭を床面よりかなり深く置くため、一酸化炭素中毒を起こしやすいことが欠点だったものの、里見弴や志賀直哉が随筆でその機能などを賞賛したことがきっかけとなり、昭和初期にかけて全国に普及しました。
大正時代
機能的な掘りごたつを作ったのはイギリス人
大正時代、木製の囲いの中に火鉢状の熱源を入れて布団をかぶせるこたつも使われるようになりました。このこたつは移動可能という長所があったものの、内部にある囲いで脚が伸ばせなかったため、その後、熱源を上部に設置して足を伸ばせる電気こたつが発売されました。テーブルの天板の下にたくさんの電球を取り付けたものや、反射板を付けた電熱器を座卓の天板の下に付けたものが実用新案として登録されています。
しかし、電気が熱源のこたつは当時の一般家庭にはあまり普及しなかったようです。
MEMO
こたつの漢字表記
こたつの漢字表記は「炬燵」ですが、室町時代には「火闥」「火踏」「火燵」、江戸時代には「火燵」「巨燵」と表記されていました。「燵」という字は日本独自の漢字で、「火榻」という熟語に由来すると言われています。榻は「しじ」と読み、古代には牛車の踏み台や腰掛けという意味で使われていました。
昭和時代
「練炭こたつ」が普及
昭和時代に入ると、練炭コンロを熱源とする「練炭こたつ」が普及し、練炭こたつ専用のコンロなども発売されました。豆炭を使う「豆炭こたつ」も一般化していきました。それまでは囲炉裏の炭の灰の厚さによって温度が調整されていましたが、通気口から通気量を調整することで温度調整ができるようになりました。
1935(昭和10)年には、こたつ内で脚を伸ばせる上、熱源に脚が直接触れることのないこたつが売りだされました。反射板を取り付けた天板の下に熱源を取り付け、それを金網で囲った「安全反射コタツ」というものでした。熱源は灰が敷かれたブリキ製の引き出しに炭を入れるもの。富山県で考案され、北陸地方を中心に普及しました。
電気やぐらこたつ」が登場
高度成長期の時代に入ると「上部加熱式やぐらこたつ」の製造販売が活発になります。1957(昭和32)年には東芝がニクロム線熱源の「電気やぐらこたつ」を約3,000円で発売しました(当時の大卒初任給は約1万3,000円)。形は現代のこたつと同じ机式で、やぐらの天井部分に金網で覆ったニクロム線と発熱体を取リ付け、そこから発する熱を反射板で反射させ、こたつ内部を暖める仕組みでした。こちらも掘りごたつのように畳を切って熱源を入れる場所を作る必要がなく、好みの場所にこたつを置いて、座って足を伸ばすことができました。
1960(昭和35)年には赤外線ランプを熱源とするこたつが登場しました。赤外線の輻射熱を利用し、点灯と同時に暖かさが得られること、視覚的にも暖かみを感じられる赤色の光が人気となり、以後、やぐらこたつの主流商品となりました。
快適で安全なこたつへ
1970(昭和45)年、赤外線ランプの点滅による温度差を感じず、温度調節もできる電子コントロール式のこたつが登場。1975(昭和50)年には、家具としてのデザイン性が高く、冬以外でもテーブルとして1年中使える「家具調こたつ」が発売されました。
その2年後には、赤外線ランプ式の温風式電子こたつが発売。送風機と電子ヒーターで、空気を暖め温風を循環させてこたつ内を暖めるというもので、重来のこたつよりも安全性と快適性に優れたものでした。
1979(昭和54)年、やぐらの内部に薄型の送風機、電子ヒーター、温度をコントロールするサーモダンパーが内蔵され、熱源の出っ張りがない「電子温風式家具調こたつ」が売り出されました。
1987(昭和62)年には、室温の変化に応じてこたつ内の温度を自動的に調整する「マイコン制御式電気こたつ」が登場しました。
MEMO
こたつの所有率No.1の県は?
2014年に『マイナビニュース』が行った「こたつ所有率」の調査によると、日本全国の所有率は48%。47都道府県のうち、所有率が最も高いのが山梨県(75%)、2番目が福島県と長野県(72%)、3番目が群馬県(71%)、4番目が山形県(70%)。所有率が最も低いのは北海道で23%、2番目に低いのが沖縄県の30%、3番目は東京都の35%。なんと北海道より沖縄県の方が所有率が高いという結果になったそうです。冬の北海道では家の中全体を暖めているため、こたつがあまり必要ないのだとか。
こたつのあれこれ
こたつ開きの日
江戸時代の武家では、旧暦10月上旬の「亥の子の日」に暖房器具を出し、町家ではその12日後の第2の亥の日からこたつや火鉢などを使い始めていました。太陽暦では11月半ばから後半にあたります。亥(猪)は、仏教の守護神である天部の一柱、摩利支天の神使であり、摩利支天は炎の神。また、陰陽五行説で亥は火を制する水にあたります。このため、武家は亥の月亥の日に火を使う道具を使い始め、家の防火を祈願しました。
この風習は現代の西日本に残っており、「こたつ開き」として亥の子の日にこたつを出す家庭や、「炉開き」の行事をする茶家があります。
MEMO
摩利支天信仰
摩利支天の原語サンスクリット語“Marīcī”は、太陽や月の光線を意味します。摩利支天は陽炎を神格化したもの。元は紀元前12世紀に成立したヒンドゥー教の教典『リグ・ヴェーダ』に登場する「ウシャス」という暁の女神と言われています。実態のない陽炎は、捉えられず、焼かれず、濡れず、傷付かない。十二天の一人である日天の前を疾行し、神通力があるとされていることから、昔の武家には「摩利支天信仰」がありました。
裏返すと麻雀卓になるこたつ板
一般的なこたつには、こたつ布団の上に四角い「こたつ板」が置かれています。昭和初期まで、こたつ板は宿屋などで使われていたものの、家庭ではあまり使われていなかったといいます。昭和30年代から一般化しましたが、その頃は娯楽として麻雀が大人気だったため、こたつ板の裏が麻雀卓になっているものが多くありました。周囲にお盆のような縁がある緑のラシャ張りの麻雀卓で、真ん中に牌を仕舞うスペースがあるものも。
麻雀人口と正方形のこたつが減少したことから、最近は麻雀卓付きのこたつ板はあまり見られなくなりました。
「こたつホース」を使うこたつ
こたつホースとは、ヒーターなどの温風吹き出し口にホースの口をセットし、その先をこたつ布団の中に入れてこたつ内を温めるというもの。こたつのスイッチを入れずにこたつホースだけを使うと、電気代を節約できるほか、こたつそのもののスイッチを入れるよりも早く温まるという利点があります。
イランのこたつ「コルシ」
カスピ海周辺の国々でもこたつと同じ様式の暖房器具が使われています。イラン、アゼルバイジャンでは「コルシ」と呼ばれ、アフガニスタン、タジキスタンでは「サンダリ」と呼ばれています。
コルシは、天井に暖房器具を付けたテーブルに毛布を掛けたもので、イランの伝統的な家具のひとつです。イランの正月であるノウルーズ(春分の日)や、ヤルダー(冬至)には家族や親戚が集まり、コルシを囲んで床に座り、食事をするのが恒例です。コルシの熱源は電気が一般的ですが、伝統的なものは石炭を入れた火鉢を使います。コルシの周りには大きなクッションが置かれ、そこに腰を下ろして膝まで毛布をかけます。食事をするときは、コルシの布を汚さないよう、ル・コルシと呼ばれる敷物をかけます。
また、スペイン南部のアンダルシア地方には「ブラセロ」という椅子に座るタイプのこたつがあります。熱源にはオリーブの実の絞りかすが燃料のあんかが使われています。
こたつの原型、囲炉裏(いろり)
囲炉裏の起源は縄文時代
囲炉裏の起源は、縄文時代にまでさかのぼります。縄文時代から平安時代までは、地面を数十センチ掘り下げたところを床にする「竪穴式住居」が建てられていました。内部の中央には炉が設置され、煙は屋根に開けた穴から外に出しました。炉は床に直接作った石の囲いの中に薪を入れて火をつけるというものでした。その後、家の様式が変化していくと共に囲炉裏の形も変わっていきました。
室町末期から江戸時代、そして近代になるまで、農村部では囲炉裏のある生活が続けられてあれ、暖房や調理など様々な用途に使われていました。
囲炉裏の主な役割
【調理】 天井から吊るした自在鉤や、五徳という金属製の台を使って鍋を火にかけ、全ての煮炊きが行われました。魚などの食材を串に刺して灰に立てたり、灰の中に食材を埋めて焼くことも。酒を入れた徳利を灰に埋め、燗付けもされました。
【乾燥】 囲炉裏の側に棚を組んで、衣類、食料、生木などを乾燥させました。
【照明】 近世以前は、火が夜の照明として使われていました。囲炉裏の灯で部屋を照らすほか、囲炉裏の縁近くに「明かし台」を設け、松明を燃やして手元の明かりとしました。
【火種】 マッチなどがなかった時代、囲炉裏の火はかまどや蝋燭の火種として使われました。
【家屋の耐久性を上げる】 木造の家の中に暖かい空気を充満させると、木材の含水率が下がって腐食しにくくなります。また、薪を燃やしたときの煙に含まれる木タールが、天井の梁や屋根の茅葺(かやぶき)、藁葺(わらぶき)などに浸透し、防水性と防虫性を高めました。
【家族団らんの場】 食事の時間や夜になると、家族は自然に囲炉裏の周りに集まって来ました。それぞれが座る場所も決まっており、各席は横座、嬶座(かかざ)、客座、木尻、下座(げざ)などと呼ばれていました。
【寝入りの暖を取る】 夕食の調理で残った熾き火を利用して寝入りの暖を取りました。木製または竹製の「こたつやぐら」を囲炉裏の上に置き、囲炉裏の方へ足先が向くように布団を敷き、就寝しました。
こたつに関することわざ
炬燵弁慶
外では意気地なしなのに家の中では威張り散らす人を「内弁慶」と言いますが、同じ意味で「炬燵弁慶」という言い回しがあります。江戸後期の読本作者、曲亭馬琴作の『南総里見八犬伝』には「俗(よ)に云ふ炬燵弁慶にて、とばかりにして術(すべ)もなし」という一文が見られます。
炬燵で河豚汁
「休養で大事をとりながら危険なことをする」という意味で、矛盾する行動の喩えです。
炬燵兵法、炬燵水練
こたつにあたりながら兵法を習ったり水練をするという意味で、実践では役に立たない論理や練習の喩え。「机上の空論」と同じ意味で使われます。
炬燵俳諧、夏将棋
「冬は炬燵で俳諧を詠み、夏は露台で将棋をする」という意味で、季節に応じた趣味や嗜好、または趣味が長続きしないことを喩えています。
こたつにちなんだ俳句
紅葉見て帰れば炬燵出来てあり (山口青邨)
何もかもすみて巨燵に年暮るゝ (正岡子規)
喜ばしき時も淋しや置火燵 (河東碧梧桐)
夜の炬燵憩へばわが身ひとつなり (鷲谷七菜子)
あたたかき炬燵を出る別れ哉 (尾崎放哉)
ひとり住むよきゐどころや古炬燵 (飯田蛇笏)
のぼせたる頬美しや置炬燵 (日野草城)
炬燵寝の妻を哀れむその形を (山口誓子)
児らは火燵に数よみて暮れそめし部屋に (種田山頭火)
炬燵さめて我家に男の世界一つ (中村草田男)
放蕩の果さながらの炬燵寝や (上田五千石)
元日や炬燵の上に受験の書 (相馬遷子)
【参考URL】2019年12月10日アクセス
・一般社団法人 家庭電気文化会「家具の昭和史 こたつ」http://www.kdb.or.jp/showakadenkotatsu.html
・歴人マガジン編集部(2016)︎ 「起源は室町時代 日本の冬の風物詩
・こたつの歴史500 https://rekijin.com/?p=18780
・養命酒ライフスタイルマガジン元気通信「冬支度の雑学」https://www.yomeishu.co.jp/genkigenki/trivia/141126/index.html
・上江洲規子(2016)「こたつが生まれたのは、なんと、室町時代」https://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00345/
・Wikipedia 「コルシ」https://ja.wikipedia.org/wiki/コルシ
・Wikipedia 「炬燵」https://ja.wikipedia.org/wiki/炬燵
・画像出典 Public Domain, Wikipedia, Pixabay, Shutterstock 他
(日刊サン 2019.12.14)
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