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菊の季節

Bynikkansan

11月 19, 2018

秋も深まり、日本では菊の花の美しい季節に。紅葉と並んで秋を象徴する菊は、様々な形で日本人の暮らしの中に溶け込んできました。五節句の最後である重陽の節句、薬用や長寿を願った習慣など、菊にまつわるあれこれをご紹介します。

 

重陽の節句の起源

旧暦9月9日は五節句のひとつ、重陽(ちょうよう)の節句です。新暦の10月中頃にあたり、菊の花の季節のため「菊の節句」とも呼ばれています。現代では、他の節句に比べるとあまり知られていませんが、昔は1年の五節句(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽)を締めくくる行事として盛んに祝われていました。 発祥は古代中国  重陽の節句の発祥は古代の中国で、漢代(前206〜後220)には既に庶民の間でも行われていたと考えられています。前漢の逸話集『西京雑記』には、劉邦(前256〜前195)の愛妾だっや戚夫人が殺された後、宮廷から追放された侍女の賈佩蘭が「9月9日は宮廷では茱萸(ぐみ)を肘から提げ、菊酒を飲んで長寿を祈った」と人に話したことから民間でも祝われるようになったと記されています。また、唐代(608−907)初期に成立した『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)には、重陽の日、前漢の魏の文帝が部下の鍾繇(しょうよう)へ菊の花を贈ったというくだりがあります。その他、郊外の丘陵地など、少し高い所に出掛けて行き、遠くを見る「登高」という習慣もありました。李白(701−762)の『九月十日即事』には、重陽の節句は2、3日にわたって祝われていたと記されています。現代中国の重陽の日は、日本の敬老の日のような「高齢者の日」に定められています。

 

9月9日が「重陽」と呼ばれる理由  「重陽」の名前の由来は、中国の思想に端を発する陰陽思想。陰陽思想では、奇数は「陽」の数と考えられているため、月と日で一桁では最大の奇数が重なる9月9日を「重陽」と呼ぶようになりました。陽というと明るいイメージがありますが、古代中国の陰陽思想では、3月3日や5月5日などの月日で奇数の重なる日は「陽の気が強過ぎるため不吉」と考えられていました。現在も各々の奇数の月日に節句が行なわれますが、これには元々、不吉を祓うという目的がありました。中でも9は1桁のうちで最大の陽数のため、特に陽の強さの度合いが大きい節句と考えられていました。しかし、いつしか陽数の重なる日は「陽の気が強いため吉祥」という真逆の考え方に変わり、現在のような不老長寿や繁栄を願う行事となりました。

 

古代中国で「九」は最高の数

古代中国では、すべての根源「太極(太一)」が「両儀(陰と陽)」を生むた考えられていました。両儀は「四象」に分かれ、四象が「八卦」に分かれて天地と一致してすべての現象になるという「易の原理」が成立していました。「陰」と「陽」は対立し、互いに消長をくりかえしますが、「陽」が「極」に達すると「陰」がきざし、「陰」が「極」に達すれば「陽」がきざすと考えたのです。  数字の「十」は全数として数の頂点にたつのですが、「満つれば欠くる」という哲学から考えると好ましくないため、「九」を「満ちて極まっている数」として「陽の極数」と考えたのです。九は最高の数であり、天の数、天子の数として神聖視されました。  さらに、九は「糾」「鳩」に通じるので「集まる」の意味を持ち、「完成させる」という意味を持つに至りました。古代中国では、天を九つに分けて「九天」といい、中国全土を「九州」といいました。また、宮廷の飾りを「九華」、天子の宮殿の門を「九門」、天子の御所を「九禁」といいました。九が最高の徳を表す数として、最も丁重に客人を迎えるときの礼が「九頓首」であり「九献」でした。これが後に日本の文化と融合して、「九頓首」は「三拝九拝」となり、「九献」は結婚式の「三三九度の盃」となったのです。

 

重陽の節句 日本での歴史と習慣

別名「菊の宴」  

 

重陽の節句は、平安時代初期、宇田天皇の時代に中国から日本に伝わったと言われています。「菊の宴」とも呼ばれ、当時は宮中の年中行事の1つ「重陽の節会」として、内裏の紫宸殿(ししんでん)で行われていました。重陽の節会では、天皇を始めとした貴族たちが集まり、漢詩を詠みあったり、菊を鑑賞したり、菊の花弁を浮かべ香りを移した菊花酒を酌み交わすなどして、繁栄や長寿を願いました。

 

菊の被綿(きせわた)  

 

重陽の前夜は、女官たちが菊の花に綿を被せて菊の香りと夜露を染み込ませ、菊の被綿を作りました。そして翌日の重陽の日にその綿で顔や体を拭くと、長寿や若返りが叶うと言われていました。菊には翁草、齢草、千代見草という別名がありますが、古代中国では、菊は仙境に咲き、邪気を祓い寿命を伸ばす力があると信じられていました。被綿については『枕草子』『紫式部日記』『弁内侍日記』など、多くの古典文学に記されています。平安時代以後の重陽の節句では、白菊に黄色の綿、黄菊に赤い綿、赤菊に白い綿を被せたり、重陽の日に菊が咲いていなかった場合は、綿で菊の花を作るという習慣もありました。

 

その他の習慣

◇菊湯…菊を浮かべた湯船に入り、花と香りを楽しみます。

◇菊枕…菊を詰めた枕のことで、これを使って眠ると香りが邪気を祓うとされていました。

◇菊合わせ…育てた菊を持ち寄り、優劣を競うイベント。現代でも、重陽の節句の時期に菊まつりや菊人形展が開催されています。

茱萸嚢(しゅゆのう)…呉茱萸(ごしゅゆ)の実を緋色の袋に入れたもの。身に着けたり、飾ることで厄祓いをします。

 

紫式部と菊の被綿

平安時代の才女、紫式部は『紫式部集』という和歌集の中で、菊の被綿について次のような歌を詠んでいます。 「菊の花 若ゆばかりに袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」 意訳:被綿の菊の露で身を拭えば1000年も寿命が延びると聞きます。しかし私は、若返る程度に少し袖を触れさせていただき、1000年の寿命はこの花の持ち主であるあなた様にお譲り致しましょう。  一条天皇の中宮で藤原道長の娘・彰子に仕えていた紫式部は、重陽の日、藤原道長の北の方・倫子から菊の被綿を贈られました。平安時代、綿はとても高価なものでもありました。紫式部は嬉しく思ったものの、自分には身分不相応なので遠慮したいという気持ちを歌に詠み、被綿を返そうとしたと言います。当時の藤原家の栄耀栄華と紫式部の思慮深さが偲ばれます。

 

嵯峨菊

嵯峨菊とは、嵯峨天皇(786−842)が京都嵯峨に自生していた野菊を宮廷風に育成したという古代菊のことです。気品ある姿と香りを持つ嵯峨菊は、京都大覚寺で門外不出の花となっています。嵯峨菊は一鉢に三本が仕立てられ、高さは約2㍍にまで育てます。これは、かつて貴人たちが殿上から鑑賞するために高く育てられたといういわれがあります。  嵯峨菊は、下に七輪、中に五輪、先端に三輪しつらえて「七五三」とし、下が黄色、中は緑、先端は淡緑に仕立てられた葉は春夏秋冬を表しています。糸状の花びらは54弁、長さは10センチほどが最も美しいとされています。花は広がって咲き始め、その後、花弁が立ち上がって茶筅(ちゃせん)のような形になります。

 

 

重陽の節句にまつわる行事

 

上賀茂神社の神事「烏相撲」  

京都市の上賀茂神社では、重陽の日に烏相撲という神事を行います。烏相撲の歴史は古く、平安時代まで遡ります。当時、上賀茂神社では氏子の子どもによる相撲が行われていましたが、祭神の祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武天皇の東征の際に巨大な八咫烏(やたがらす))になって先導を務めたことと、悪霊を退治する信仰行事としての相撲が結びつき、烏相撲が行われるようになりました。本殿で神事が行われた後、境内細殿の前庭で、弓矢を持った烏帽子・白針姿の刀祢(とね)が、横跳びをしながら烏の鳴き真似をして、小学生たちが相撲をとります。平安時代は、巫女として奉仕した未婚の内親王、斎王が代々烏相撲を観覧したと言われています。鎌倉時代に斎王制度が絶えた後も、烏相撲では毎年斎王の席が用意されていました。平成3年(1991年)には、約800年振りに斎王(葵祭の斎王代)が烏相撲を観覧し、話題になりました。

 

後の雛(のちのひな)  

「後の雛」とは、3月3日の桃の節句で飾った雛人形を半年後の重陽の節句で再び飾り、人形の虫干しをしながら長寿と健康を願い厄除けをする風習のことです。江戸時代、貞享年間(1684〜1688)頃に始まり、庶民の間に広まったと考えられています。8月朔日(1日)に行なうこともありました。俳諧歳時記『滑稽雑談』(1713年)には「今また九月九日に賞す児女多し、俳諧これを名付けて後の雛とす」「二季のひゝなまつり、今も京難波には後の雛あるよしなれど、三月の如くなべてもてあつかふにはあらずとなむ、播州室などには八朔に雛を立るとぞ」という記述があります。

 

お九日(おくんち)

江戸時代、重陽の日は「お九日」とも呼ばれていました。「供日」「宮日」ともいいます。関東地方では9月の9日、19日、29日を「三九日(みくんち)」といい、それぞれ「初九日」「中の九日」「しまい九日」と呼んで大事な節目としていました。「みくんち」に秋茄子を食べると中風にならないという言い伝えから、茄子料理を食べる習慣もありました。北関東の農村部では、収穫後の骨休みや収穫祭という意味もあり、「刈上げ節供」と言って、特に稲が収穫された後の9月29日が重んじられていました。

 

 

 

『風流五節句』重陽 鳥文斎栄之 江戸時代後期

 

 

 

 

松尾芭蕉が詠んだ菊の句

草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒

この俳句は、重陽の節句にまつわる俳句として江戸時代の俳人・松尾芭蕉(1644−1694)が詠んだ一句です。江戸時代中期、元禄8年(1695年)に成立した俳書『笈日記』には「(元禄4年)九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに」という記述があり、また江戸中期の俳諧書『蕉翁句集』の付記には「此の句は木曽塚旧草に一樽を人の送られし九月九日の吟なり」という一文があります。このことから、芭蕉が現在の滋賀県大津市にある義仲寺に滞在していた際に詠んだ句であることがうかがえます。

 

この句には、次のような意味が含まれています。「平安の昔から、重陽の節句には菊花酒という酒を飲み、長寿を祝う習慣があった。今日は重陽の節句だが、菊花酒などは隠遁の自分には関係がないと思っていたところ、日暮れになり、思いがけなく一樽の酒が届いた。嬉しくなくはないが、日が暮れる頃に届いたことには一抹の淋しさがある」  「草の戸」は、義仲寺境内にある無名庵のことで、日暮れに酒を届けてくれたのは乙州という人でした。中国の故事の1つに、重陽の日、陶淵明(とうえんめい)が野原で一人菊の花を摘んでいると、太守から酒が一樽が届けられたというエピソードがあります。この句では、芭蕉の経験と陶淵明の故事が重ね合わせられています。

 

山中や 菊はたおらぬ 湯の匂

この俳句は、芭蕉が元禄2年(1703年)の7月末から数日間、山中温泉に滞在した際に詠んだ一句で、次のような意味があります。  「中国の周代に、菊の露を飲んだおかげで少年のまま700歳まで生きたという菊慈童の伝説がある。しかしここ山中では、菊に頼らずとも、湯の香りを吸うだけで長生きできそうだ」  この句は、滞在した宿の主人・桃妖へ挨拶吟として贈られました。

 

栃木県の佐野厄除け大師境内にある菊慈童の像。 (GNU Free Documentation License)

 

 

 

 

食用としての菊

重陽の節句の祝い膳には、菊酒と共に、栗ご飯、秋茄子、食用菊などの秋の味覚が使われます。食用菊は、食用花として栽培されるエディブルフラワー(edible flower)の1つ。お吸い物、おひたし、酢の物、和え物、天ぷらなどとして食べられています。蒸した花びらの塊を薄く四角形に伸ばして乾燥させた、菊海苔という加工品もあります。花びらを食用とするのは大輪種、刺身に添えたりして花全体を食用とするのは小輪種と呼ばれます。刺身のツマとしての菊は、見た目の美しさだけでなく、解毒作用を利用した食中毒の予防という役割もあります。

 

 

刺身に添えられた食用菊。花弁を醤油に散らし、彩りや香りを楽しみながら食べることもある。

歴史

古代中国では、菊は延命長寿の花とされ、菊花酒や菊茶として飲まれたり、漢方薬として使われたりしていました。苦味を少なくし、花びらを大きく改良された品種が食用菊で、奈良時代頃、「延命楽」として中国から日本に伝わりました。延命薬は、現代でも「もってのほか」「カキノモト」という名前で栽培されています。また、平安時代中期の延長5年(927年)に編纂された格式「延喜式」の典薬寮でも、薬として黄色い菊の花が使われています。庶民の間でも食されるようになったのは江戸時代。元禄8年(1695年)に記された本草書『本朝食鑑』には「甘菊」(食用菊の別名)を、お吸い物に入れたり、醤油につけるという食べ方が記されています。

 

栄養素や効能

食用菊には、ビタミンC、β-カロテン、葉酸など、抗酸化作用の高い栄養素が多く含まれています。紫色の紫菊花には抗糖化作用もあるといわれており、抗老化作用などへの効果も期待されています。また、食用菊を食べると、体内の3つのアミノ酸(グルタミン酸、システイン、グリシン)から成る「グルタチオン」の産生が高まり、解毒作用、抗酸化作用などがあるとされる他、日本大学の薬学部・理学部、山形県衛生研究所の共同研究では、がんの抑制やコレステロールと中性脂肪の低下に効果があることが確認されています。

 

品種

【阿房宮(あぼうきゅう)】青森県八戸市特産の阿房宮は、黄色で八重咲きの小輪種です。江戸時代、豪商の七崎屋半兵衛が京都から八戸に持ち込んだもので、よく刺身のつまや料理の飾りなどに使われています。 【延命楽】明るい赤紫色の八重咲きの菊で、特に酢の物によく使われます。新潟では「カキノモト」 山形では「もってのほか」と呼ばれていますが、「もってのほか」という名前の由来は「天皇の御紋である菊を食べるとはもってのほかだから」「もってのほか(思った以上に)おいしいから」なのだとか。

 

菊の紋

菊の花はその姿や香りが気高いことから、日本では古くから梅、竹、蘭と共に「四君子」のひとつとして愛賞されてきました。花は観賞用としてだけでなく、薬餌効果もあるため「延命草」と呼ばれ、花弁が放射状なことから太陽にかたどって「日精」とも呼ばれています。延命に効果があり、百草の王と見なされていたため、藤原時代になって菊を文様として使用することが盛んになりました。「紫式部日記」には五重の唐衣が、「栄華物語」には菊のうちかけ、菊の二重紋の名が使われています。菊の紋をつけたことがはっきり記されているのは「蜻蛉日記」以後です。

 

当時はまだ、菊の花紋が皇室の紋章とは定まっていませんでした。平安末期、後鳥羽天皇が菊花を深く愛し、御服興車はもちろん、刀剣懐紙などにいたるまで菊の文様を用いたため、後深草上皇、亀山上皇、宇多法皇もあいついで用い、菊花紋が皇室専用となりきっかけとなりました。「ハバキ(刀剣の鍔の上下にはめる鞘口形の金具)の下に菊花紋を刻んだ後鳥羽上皇の佩刀(はいとう)が現存しています。平安時代から文様としてとして愛用され、藤原時代から鎌倉時代にかけて流行し、衣服や器材に菊の模様がほどこされました。  

 

菊花が皇室の紋章となってから、足利尊氏が後醍醐天皇から紋章を拝受したという記録が、「足利治乱記」に掲載されています。このころから戦国時代にかけて、武将の勲功によって菊桐の紋章がしばしば下賜されるようになりました。安芸の毛利氏、丹波の波多野氏、越後の上杉氏などは著名な例です。しかし、徳川時代に入り、ときの後陽成天皇が家康の勲功を讃え、紋章下賜の沙汰を伝えたところ、家康がこれを拝辞したことから、紋章下賜はその後あとを絶ってしまいました。徳川幕府の確立とともに、皇室の権威がしだいに衰え、紋章の禁令も緩んだため、大名配下の武士の間では、勝手に菊花紋を用いるものも多くなり、徳川末期には70余家に及びました。

 

(日刊サン 2018.10.23)