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端午の節句と鯉のぼり-意味や由来を知って楽しく過ごそう

Bynikkansan

4月 28, 2018

5月5日はこどもの日、そして男の子の成長を祝う「端午の節句」でもあります。日系人の多いハワイでも、毎年ケイキパーティなどが催されるほか、バックヤードに本格的な鯉のぼりを揚げる家もあるようです。今回のエキストラ特集では、端午の節句、鯉のぼり、五月人形、柏餅など、こどもの日に関するものの由来や意味などをご紹介します。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦節句とは?

節句は、中国の陰陽五行説に由来する日本の暦の年中行事です。季節の節目の日、神様に旬の果物や草花を備え、それを家族で食べて邪気を払う行事で、奈良時代頃から行われていました。現代の日本では、主に右記の5つの節句が祝われています。

 

1月7日:人日(じんじつ)、七草の節句

3月3日:上巳(じょうし)、桃の節句

5月5日:端午(たんご)、菖蒲の節句

7月7日:七夕(しちせき)、笹の節句

9月9日:重陽(ちょうよう)、菊の節句

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦端午の節句

「端」は物の端、「始まり」という意味で、「端午」は元々、各月の始めの午(うま)の日を指していました。

「午」は「五」に通じることから毎月5日が端午となり、中でも5の数字が重なる5月5日を「端午の節句」として、行事を行うようになりました。

 

古代中国が起源

端午の節句の起源は、古代中国の邪気除けの行事と考えられています。古代中国では、5月は雨季にあたり、疫病が流行し易かったために、物忌み月、悪月とされていました。その邪気を祓うため、5月最初の午の日に、薬草を摘んだり、菖蒲酒を飲んだり、ヨモギを編んで作った人形を飾ったりする行事がありました。現在の端午の節句に菖蒲やヨモギが使われるのは、薬草の中でも特に独特の香りがある菖蒲やヨモギには強い厄除けの力があると信じられていたためです。

 

端午節会(たんごのせちえ)

【薬狩り】

 宮中では、飛鳥時代頃から「節会(せちえ)」が催されていました。5月5日の端午節会は、五日節会(いつかのせちえ)とも言い、中国から伝わった風習を取り入れ、男性は鹿の若角を採り、女性は薬草を摘む「薬狩り」を行う風習がありました。  薬狩りの記録がある最古の文献『日本書紀』には、611年(推古19年)5月の条に「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。鶏明時を取りて、藤原池の上に集ふ。会明を以て乃ち往く」と記されています。菟田野(うだのの)は、現在の奈良県宇陀市にある阿騎野周辺のことと考えられています。

 

【観騎射式の日】

平安時代初期に編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、端午の日に天皇が馬が走る様子を鑑賞することもあったという記述があります。これが後に、騎射の儀式に変わりました。平安時代初期の勅撰儀式『内裏式』では、5月5日が「観騎射式」の日とされています。

 

【吹き流しの起源は薬玉の五色糸】  

端午節会の日、内務省と宮内省は、内薬司と典薬寮を率い、邪気を祓い長寿をもたらすとされた菖蒲草と、沈香や丁子などの香料を袋に入れ、五色の糸で飾った薬玉(くすだま)を天皇に献上しました。献上された薬玉は、儀式に参加した皇太子や貴族たちに下賜されました。内裏の軒先には菖蒲やヨモギが吊り下げられ、薬玉は柱にかけられました。薬玉を飾った五色の糸は、鯉のぼりの一番上に掲げる吹き流しの起源になりました。宇多天皇(在位887〜897)の時代からは、ちまきが食べられるようになりました。

 

元々は女性の節句だった

旧暦の5月は、日本では田植えの時期にあたります。昔は、早乙女と呼ばれる若い女性が田植えをしていました。田植え前の端午の日、早乙女が飲食などを慎んで不浄を避け、心身を清らかに保つという「五月忌み」の習慣がありました。奈良時代に中国式の端午の節句が伝わると、菖蒲や葵などの薬草を軒先に掲げたり、菖蒲で屋根を葺いて家の中を清めると共に、早乙女は家にこもり、田の神の奉仕者として五穀豊穣を祈願し物忌み精進の生活に入るという風習が生まれました。関東以西では、現在でも5月4日の夜から5日にかけてを「女の家」「女の屋根」と呼び、女性が家にこもる習慣が残る地域があります。

 

女性の節句から男の子の節句へ

武家が中心の社会となった鎌倉時代、端午の節句に使われる菖蒲は、武事を重んじるという意味の「尚武」や、「勝負」という言葉に掛けられるようになりました。この頃から、武士の家では、端午の節句が男の子のための行事として盛んに祝われるようになりました。時期を同じくして兜やのぼりが飾られ始めたと言われています。江戸時代に入ると、男の子の健やかな成長を願う行事として、庶民にも浸透していきました。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦鯉のぼり

男の子の出世と健康を願い、家の庭に飾られる鯉のぼりは、紙、布、不織布などに鯉を描いたのぼりのことです。

皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹き流しとも呼ばれます。

 

起源は武士の旗指物

鎌倉時代以降、端午の節句が盛んに祝われた武士の家庭では、その日、虫干しを兼ね、奥座敷にその家に伝わる鎧兜を、玄関には戦時に鎧に刺し目印にしたのぼり旗指物(はたさしもの)を飾る習慣がありました。この鎧兜が五月人形の起源に、旗指物が鯉のぼりの起源になりました。

 

最初は五色の吹き流しのみだった

江戸時代、経済力がありながらも社会的には身分が低かった商人の家庭では、身分の高かった武士に対抗し、端午の節句に豪華な武具の模造品や、旗指物の代わりとして五色の吹流しを飾るようになりました。

 

その後、鯉の幟が登場

その後、一部の家庭で「龍門」(※)の故事にちなみ、鯉の絵が描かれた吹き流しを飾るようになりました。これが現代の鯉のぼりに発展するのですが、当時の鯉のぼりは黒い鯉の真鯉(まごい)のみでした。当時、鯉のぼりは江戸を中心とした関東地方の風習で、関西地方には浸透していなかったようです。『東都歳時記』には「出世の魚といへる諺により」鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは「東都の風俗なりといへり」と記されています。明治時代頃から全国に広まり、真鯉と緋鯉(ひごい)が対で揚げられるようになりました。昭和時代からは、家族を表すものとして子鯉も加わりました。

 

真鯉のみの鯉のぼり。歌川広重『名所江戸百景』(1858年)より
江戸時代の節句の様子。左から、真鯉のこいのぼり、七宝と丁子の紋が描かれた幟、病除けと学業成就の神、鍾馗(しょうき)を描いた旗、赤い吹流し。『日本の礼儀と習慣のスケッチ』(1867年)より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※中国の正史『二十四史』の1つ『後漢書』に記されたもので、多くの魚が登ろうと試みた黄河上流の急流「龍門」を、鯉だけが登り切り、その鯉は龍になることができたという故事です。これにちなみ、鯉の滝登りは立身出世の象徴となりました。栄冠を手にするために通る関門「登龍門」の語源になっています。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦菖蒲湯

菖蒲湯とは、端午の節句に菖蒲の根や葉を入れて沸かす風呂のことです。菖蒲は長いまま入れたり、刻んで入れたりと、地域によってさまざまです。漢方では、日干しにした菖蒲の根を入れた風呂が湯治療のひとつとされています。

 

【起源】

 6世紀に梁の宗懍が著した中国最古の年中行事記『荊楚歳時記(けいそさいじき)』には、長寿や健康を願って菖蒲が用いられたと記されています。春から夏へ季節が映る変わり目の端午の日は、体調を崩しやすいと考えられていたため、厄除けの力が強いとされた菖蒲を酒や風呂に用い、健康を祈願しました。

【健康効果】  

菖蒲の根の部分に多く含まれ、独特の香りの素となるアサロン、オイゲノールという精油は、腰痛、神経痛の緩和、疲労回復、血行促進、肌の保湿などの効果があると言われています。

 

日本の菖蒲湯

【室町時代】…皇族・貴族の風習だった…

6世紀に梁の宗懍が著した中国最古の年中行事記『荊楚歳時記(けいそさいじき)』には、長寿や健康を願って菖蒲が用いられたと記されています。春から夏へ季節が映る変わり目の端午の日は、体調を崩しやすいと考えられていたため、厄除けの力が強いとされた菖蒲を酒や風呂に用い、健康を祈願しました。

 

【江戸時代】…庶民にも広まった…  

江戸時代後期の年中行事が紹介された板本『東都歳事記』には、5月5日の夜か6日の朝に「諸人菖蒲湯に浴す」と記されており、各家で菖蒲湯に入る風習があったことがうかがえます。また、菖蒲の葉の鉢巻を締めて菖蒲湯に入ると、厄除けの効果がさらに高まる、頭がよくなると考えられていました。

…銭湯の菖蒲湯…  

長屋に暮らしていた庶民は、銭湯で菖蒲湯を楽しみました。俳人の宝井其角(たからいきかく・1661〜1707)は端午の節句の銭湯について「銭湯を沼になしたる菖蒲(あやめ)かな」という句を詠みました。「銭湯の湯は菖蒲に埋め尽くされて沼のようになっていた」という意味です。端午の節句の日、銭湯には「五月五日菖蒲湯仕候」という紙が貼り出され、訪れた客は普段の湯銭に祝儀を加えておひねりにし、番台の上に用意された三方に置くという習慣がありました。

 

こちらが菖蒲湯に使うサトイモ科のショウブ。

 

花を楽しむ菖蒲はアヤメ科。カキツバタも同種の植物。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豆知識 

印地打ちと菖蒲切り

鎌倉時代に始まった「印地打ち」とは、河原などで二手に分かれて小石を投げ合い、勝敗を決めるという遊びです。死傷者が相次いだため一時禁止されましたが、江戸末期、端午の節句の男の子の遊びとして復活しました。印地打ちの後には、菖蒲を刀に見立てて切り合う「菖蒲切り」が行われました。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦端午の節句の食べ物

柏餅

柏餅は、丸めて平たくした上新粉(精白米を細かくひいた粉)の餅を二つに折り、間に餡をはさんで柏の葉でくるんだものです。

【柏の葉は子孫繁栄の象徴】

 柏餅は、江戸時代後期に登場しました。柏の葉には、新芽が育つまでは古い葉が落ちない性質があることから、家系が途切れない、子孫繁栄の象徴とされていました。端午の節句に柏餅を供える習慣は江戸で始まり、参勤交代を通して全国に広まりました。自生する柏が少ない関西以西では、柏餅が登場する前からあったサルトリイバラの葉で包んだ餅が備えられていました。サルトリイバラの他、ホオノキ、ミョウガ、ナラガシワ、コナラなどの葉が用いられていました。関西以西では「いばらもち」

「おまき」「かからだご」「しばもち」「だんご」「ちまき」など、地域ごとにさまざまな呼び名があります。1930年代以後、韓国や中国から柏の葉が輸入されるようになり、柏の葉で包んだ柏餅が全国に広まりました。

 

【柏と槲】  

「柏」という漢字は、本来、ヒノキ科の針葉樹「コノテガシワ」を指すものでした。柏餅に用いられるのはブナ科のカシワで、漢字は「槲」。本当は「槲餅」と書くのが正しいのです。

 

ちまき

ちまきは、三角形や円錐形に整えたもち米や餅を笹の葉で包み、い草でしばった食品

 

端午の節句には、柏餅の他にちまきが食べられます。これは、古代中国の楚(紀元前223年)の政治家だった屈原に由来すると言われています。  屈原は政治家として人望を集めていましたが、失脚し、5月5日に汨羅江(べきらこう)に身を投げ自決します。それを知った人々は、汨羅江にちまきを投げ入れて魚の餌とし、屈原の亡骸が魚に荒らされるのを防いだといいます。この故事にちなみ、端午の節句にちまきが食べられるようになったと言われています。

 

豆知識 

韓国、ベトナムの端午の節句

韓国

朝鮮半島には旧正月(ソルラル)、端午(タノ)、秋夕(チュソク)、寒食(ハンシク)の四大名節があります。端午の節句「タノ」(단오)は旧暦の5月5日、田植えと種まきが終わる時期に山の神と地の神を祭る行事が行われます。李氏朝鮮時代には、男の子はシルム、女の子はクネと呼ばれるブランコ乗りが楽しまれました。また、厄除けのため、菖蒲を煮出した汁で髪を洗った後、女の子は菖蒲の茎のかんざしを、男の子は菖蒲の腰飾りを身につけました。  伝統料理としては、ヨモギやチョウセンヤマボクチを練り込んだ餅を車輪の型で押したチャリュンビョン(車輪餅)や、冷たく甘い汁にユスラウメというさくらんぼに似た果物や、その花びらを浮かべたファチェ(花菜)というデザートがあります。

ベトナム

ベトナムの端午の節句では、祭壇にコムジウ(Cơm rượu)とジウネップ(Rượu nếp)というもち米の発酵食品と季節の果物が供えられます。「殺虫節」とも呼ばれ、この日に果物を食べると体内の虫が退治されるとされています。樹木の殺虫を行う地域もあります。

 

 

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦現代の「こどもの日」へ

 

1949年に発行されたこどもの日の切手

ゴールデンウィークの祝日のひとつ「こどもの日」は日本の国民の祝日で、今からちょうど70年前の1948年、5月5日の端午の節句に制定されました。祝日法2条では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨とされています。5月5日に決まった理由は諸説ありますが、全国的に気候が良く、端午の節句がお祝いでもあったためこの日とされたようです。また「こどもの日」の名前は男女の区別なく、子どもの健やかな成長を祝う日という趣旨から決められました。

【初節句】子どもが生まれて初めて迎えるお節句のことを言います。鎧や兜などの五月飾りは命を守る武具であり、厄をはらい、出世の願いも込められており、現代にもその習慣が残っています。誰が買うかは、母親の実家が全て揃える、父方からは鎧兜、母方からは鯉のぼりを準備するなど、地方によってさまざま。最近では双方でお金を出し合って両親が選ぶ、というケースが多いようです。出産後1、2カ月でお節句を迎えてしまうようなら、赤ちゃんやお母さんの体調によっては無理をしないで、翌年に持ち越すこともおすすめです。

 

(日刊サン 2018.04.28)