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もうすぐ11月15日、七五三ですね。七五三は、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝い、神社やお寺で「奉告祭」と呼ばれる七五三詣でを行い、成長の報告、感謝、祈願をするという伝統的な日本の年中行事です。日本と所縁の深いここハワイでも、お子さんの七五三で神社やお寺に参拝する方が多くいらっしゃいますが、皆さんは、3歳、5歳、7歳で儀式をする意味や、千歳飴が長い理由などをご存知でしょうか。今回の特集では、あまり知られていない七五三の由来や歴史などに迫ってみたいと思います。
七五三の起源
七五三の起源となる行事が始まったのは室町時代(1336〜1573年)。
当時の乳幼児死亡率は推定50%以上と大変高く、風邪や流行病で子どもが亡くなることは日常茶飯事でした。このことから、当時の子どもは神様からの授かりもの、7歳までは神であると考えられていました。そのような背景から、子どもが生まれると、すぐにではなく、3〜4年経った後で現在の戸籍に相当する人別帳、氏子台帳に登録され、その後、子どもが無事成長したことを感謝しながら長寿を願うという行事が行われていました。これが七五三の始まりといわれています。
始めは関東地方のみの風習でしたが、後に関西地方を経て全国へ広まっていき、明治時代に現在のような七五三の行事になったと考えられています。旧暦が使われていた頃に始まった行事ということで、新暦ではなく旧暦の数え年で七五三を行う地域もあります。
11月15日の由来
昔、旧暦の11月15日は鬼が出歩かない「二十八宿の鬼宿日(にじゅうはっしゅくのきしゅくにち)」と呼ばれ、この日は結婚式以外のことは万事順調に行えると考えられていました。また、満月であるこの日は、日本各地で収穫祭が行われていました。
江戸時代に入ると、収穫祭では、作物の収穫だけでなく、子供が無事成長したことを感謝しながら、さらなる繁栄と安寧を祈願するという神事が行われるようになりました。
このことを背景として、1681年(江戸時代・天和元年)11月15日、現在の群馬県にあった館林城の城主で徳川綱吉の長男、徳川徳松の健康を祈願したことが、この日に七五三が行われるようになった由来といわれています。
【豆知識(1)】
「二十八宿」とは、紀元前5世紀ごろの中国を発祥とする古代の天文学、占星術で使われた言葉で、夜空をプラネタリウムのような丸い天井に見立てた「天球」を通る「天の赤道」を、正座を基準として28つのエリアに区分したものです。天の赤道とは、地球の赤道が作る丸い面を天球まで延長したときにできる円のことです。江戸時代の日本では、二十八宿に関係する書物が多く出版されました。
二十八宿図 『安部晴明簠簋内傳圖解』東京神誠館 1912年
<ja.m.wikipedia.org/wiki/二十八宿>
3歳、5歳、7歳、それぞれの意味
七五三の行事は、それぞれの年齢で違う意味があります。
【3歳:髪置き】江戸時代、子供が3歳になるまでは髪を剃る習慣があったため、それを終了し、髪を伸ばし始める儀式の名残りです。主に女の子が行いますが、男の子が行う場合もあります。
【5歳:袴儀】男の子が初めて袴を身につける儀式。
【7歳:帯解き】 女の子が、大人と同じ本仕立ての着物を身につけ、幅広の丸帯を結ぶ儀式。「紐落し」ともいいます。福岡県の一部地域では、ふんどしや湯文字という大人の下着を初めて身につける「へこかき」「ゆもじかき」という儀式を行います。
数え年とは
生まれた年を「1歳」とする年齢の数え方を「数え年」といいます。元日を迎えるごとに1年ずつ歳を取っていきます。
例えば、誕生日が12月31日の場合、翌日の1月1日には生後2日でも「2歳」。誕生日が1月1日の場合、2歳になるのは次の年の1月1日になります。
数え年で七五三を行う場合は、数え年3歳=満2歳の年、数え年5歳=満4歳の年、数え年7歳=満6歳の年となります。
【豆知識(2)】
島根県出雲地方の七五三では、神様が3歳で言葉、5歳で知恵、7歳で歯を授けてくれることに感謝したり、それぞれの歳を子供の厄年と考え、お祓いをするところもあります。
七五三の着物
【3歳(女の子)】身丈の3倍の布で身頃を作った三つ身の着物に、裄丈・身丈を短くする肩上げ・腰上げをして着せてあげ、その上に被布というベストのような上衣を羽織るのが正式な装いです。帯は締め付けの少ない三尺帯や、身長に合わせて着物を端折り上げる扱き帯(しごきおび)を締めます。
着物と被布の生地は、友禅染や全体に同じ模様がパターンとして描かれている小紋柄、色は赤やピンク、柄は梅や牡丹など、いろいろなものがあります。
【5歳(男の子)】黒羽二重に、背中・両袖・両胸に1つずつ紋のついた五つ紋の羽織か長着、仙台平の袴姿が正式な装いです。羽織には、賢さと強さを象徴する鷹や、身を守ることを象徴する兜などの柄が入っているものもあります。
【7歳(女の子)】 四つ身の振袖に帯付き姿が正式な装いです。肩上げをし、衿元には「筥迫(はこせこ)」という薄い箱を入れます。筥迫とは、江戸時代に武家の女性がお化粧道具や懐紙を入れて持ち歩いた化粧ポーチです。帯の下には扱き帯を結び、胸元には「末広」という扇子を刺します。先に向かって広がっていく形をしている扇子を縁起物として使う際、「末広がりに幸福と繁栄が続くように」という意味を込め、縁起物として末広と呼ばれるようになりました。
振り袖の生地は、縮緬や、厚く艶のある綸子、友禅染めや絞り模様などがあります。
刺繍の入った筥迫
筥迫は続くよどこまでも!<rombako.hakoseko.mods.jp>
いまどき七五三事情
家族だけで伝統的なお参りをする従来の形式から、最近は七五三の祝い方も多様化しています。写真撮影も着物だけでなくタキシード&ドレスで撮影というのも珍しくなくなりました。お参り当日に和服は、子どもにとっては苦痛な場合もあるので、あえて和服にこだわらない人も増えてきているそう。
親戚などを大勢集めてお祝いをするのに、ホテルで宴席を開くケースも多くなりました。特に埼玉、千葉、茨城県周辺では結婚披露宴並みに豪華に催すこともあるそうです。
気になるご祝儀は親族で1万円から2万円、その他で3千円から1万円くらい。
お返しは本来必要なく、お菓子や赤飯を返礼にするくらいです。場合によっていただいた額の半額から3分の1程度の内祝いを贈ると良いでしょう。親族であれば食事にお誘いしたり、写真を焼増ししたものに、子どものお礼の手紙などを添えて贈ると喜ばれます。
参考:ウィキペディア/allabout
千歳飴とは?
起源と意味
千歳飴の起源は、江戸時代(元禄・宝永年間・1704〜1711年)に、浅草の七兵衛という飴売りが売り出した「千年飴」といわれています。 千歳飴の「千歳」には「長生き」という意味があり、親は「子供が長生きできるように」という願いを込めて、七五三を迎えた子供に与えます。飴の細く長い形と紅白の色は「千歳」を表しています。
鶴、亀、松、梅、高砂の尉と姥の絵柄が入った袋と千歳飴
<ja.m.wikipedia.org/wiki/松竹梅>
製造方法
千歳飴は、砂糖と水飴を約140℃になるまで煮詰めた後、取り出して、平らにしてから冷まします。この時点で飴はまだ透明です。半分固まったところで、空気を混ぜるため、棒に引っ掛けて引き伸ばしながら「製白機」という機械に入れて、何層にも折り返します。この工程で、飴の中に空気の細い隙間ができ、透明だった飴が乱反射によって白く見えるようになると共に、独特の食感が生まれるのです。白くなった飴は細長く伸ばされ、適度な長さで叩き切られます。
格式あるお菓子屋さんでは、出来上がった千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べるところもあります。
千歳飴の袋に使われる絵柄
長いもので1メートルにもなる千歳飴の袋には、鶴亀、松竹梅、高砂の尉と姥など、縁起の良い絵柄が描かれています。
【鶴】不老長寿を象徴する吉祥の鳥。「鶴は千年」といわれます。また、共鳴した鳴き声が遠くまで届くことから、天に届く、転じて「天上界に通じる鳥」といわれていました。室町時代、長寿を願って千羽鶴を折る習慣が始まり、江戸時代には、病気の回復祈願やその他の願いを込めて折られるようになったと考えられています。
【亀】 仙人が住む不老長寿の地、蓬莱山の使い。「亀は万年」といわれ、知恵と長寿を象徴しています。甲羅が硬いことから、インドでは世界を支える不動の象徴とされています。
野生のガラパゴスウミガメの平均寿命は100歳を超え、脊椎動物の中で一番寿命が長いといわれています。最も長生きした亀は「マリオンのゾウガメ」と呼ばれるアルダブラゾウガメ。1766年、フランスの探検家だったマリオンという人が、セーシェル諸島で捕まえてモーリシャス島に持ち込んだものです。以降、この亀は、1918年に死亡するまで152年間も飼育されました。捕獲時の推定年齢が50歳前後だったので、死亡時は200歳前後だったと考えられています。
ガラパゴスゾウガメ<ja.wikipedia.org>
【松竹梅】 由来は「歳寒三友(さいかんさんゆう)」という松、竹、梅を指す中国の四字熟語。冬の間も、松と竹は緑を保ち、梅は花が開くことから「寒い冬という季節に友とすべき3つのもの」という意味で、冬の間の画題とされました。
この3つの画題が日本に伝わったのは平安時代です。その頃から、常緑樹の松は「節操・長寿・不老不死」、多くの根を張り次々と新芽を出す竹は「子孫繁栄」、初春によい香りを漂わせる梅は「気高さ」の象徴と考えられるようになりました。
【高砂の尉と姥(たかさごのじょうとうば)】 現在の兵庫県にある高砂神社の境内には、昔、一本の根から左右に別れた雌雄の幹が生えている松がありました。この松の前に、「尉と姥」に姿を変えたイザナギ神とイザナミ神が姿を現し、夫婦の在り方と説きました。以来、その松は「相生の霊松」と呼ばれ、イザナギ神とイザナミ神は縁結びと夫婦和合の象徴となりました。
能「高砂」を模した人形 <Photo AC>
十三詣り
関西地方では「十三詣り」という七五三に似た儀式があります。旧暦の3月13日前後 (新暦では3月13日〜5月13日)に、男女とも数え歳の13歳で行うお祝いです。子供の幸福や開運を祈願して、神社やお寺に参詣します。特に、京都市・嵯峨にある法輪寺の本尊、虚空蔵菩薩への十三詣りは有名です。
虚空蔵菩薩は知恵と福徳を司る菩薩で、「知恵詣り」とも呼ばれます。知恵詣りでは、半紙に筆で、その子どもが大切と考えている漢字一文字を書いて奉納し、祈祷を受け、その後にお守りとお供え物を授けてもらって帰ります。帰るとき、本堂を出た後で後ろを振り返ってしまうと、そこで授かった智恵を返さなければならなくなるという言い伝えがあります。そこで、狭く長い石段を降リ切った鳥居をくぐるまで、または嵐山の渡月橋を渡り終えるまでは、周囲に動じず、後ろを振り向かずに歩いて行くという習慣があります。
法輪寺の十三詣りは、平安時代初期の僧、空海(774〜835)が、記憶力を高めたといわれる「虚空蔵求聞持法」に由来します。空海は、現在の高知県室戸岬にある御厨人窟(みくどろくつ)という洞窟で修行をしていました。ある日の明け方、空海が虚空蔵菩薩の真言を唱えていると、空から虚空蔵菩薩の化身とされる明星(金星)が近づいてきて、彼の口の中に飛び込んだといいます。このことで、空海は虚空蔵菩薩と一体となり、人間離れした記憶力を得ることになりました。
空海には、サンスクリット語を3ヵ月でマスターした、修行開始後わずか3ヵ月で密教の最高位に着いたなど、数々の天才伝説があります。
法輪寺の虚空蔵菩薩。 7世紀半ば、飛鳥時代の止利派によって作られた。
Japantemple.com <japantemple.com/2015/09/22/post-822/>
【豆知識(3)】
虚空蔵求聞持法の修行では「ノウボウアキャシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」という虚空蔵の真言を、1日1万回を100日間、または1日2万回を50日間続け、合計で100万回唱えます。
<11月15日は 昆布の日・かまぼこの日>
昆布の日
昆布は「喜ぶ」に通じる縁起物 <rausu.com>
1982(昭和57)年、日本昆布協会が11月15日を「昆布の日」に制定しました。「七五三の日に栄養豊富な昆布を育ち盛りの子供たちに食べてもらい、これからも昆布を食べる習慣をつけて欲しい」という願いを込めて制定したものです。
また、この時期は収穫された昆布が流通し始めるため、それに合わせて、海からの贈り物である昆布に感謝して食べる日という意味もあります。日本では、縄文時代から昆布が食べられており、当時はミネラル分を補給する食べ物として貴重だったようです。平安時代、昆布は仏事、神事で供物として捧げられるようになり、室町時代に入ると武家の食卓で食べられるようになりました。
参考:日本昆布協会ホームページ kombu.or.jp
かまぼこの日
『類聚雑要抄』に記されたかまぼこの図
1983(昭和58)年、全国かまぼこ連合会が11月15日を「かまぼこの日」に制定しました。今から約900年前、平安時代後期の1115年に記された古文書『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』の中に、藤原忠実が引っ越し祝いに開いた宴会のスケッチがありますが、そのメニューの1つとして竹串に巻いて作られたかまぼこが描かれています。日本史上初めて文献にかまぼこが記録されたものであり、これにちなんで11月15日に制定されました。
七五三の日は、子どもの成長を願って紅白のかまぼこを食べる習慣があったということも由来の1つとなっています。かまぼこの原料となる魚はイサキ、サメ、タラ、鯛などの白身魚。これらの魚が高価だった江戸時代ごろまで、かまぼこは貴重なご馳走として扱われていました。
かまぼこは、杉などの小さい板の上に半円筒形の「かまぼこ型」に盛られたものは「板かまぼこ」、麦わらなどに巻きつけて作られる「巻かまぼこ」、薄く削ったかまぼこを乾燥させて作る「削りかまぼこ」など、いろいろな種類があります。
参考:全国かまぼこ連合会(全かま連)ホームページ – zenkama.com