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江戸町人の 暮らしと文化

Bynikkansan

5月 12, 2018

江戸時代は、中世まで貴族や武士の特権だった花見や旅行、節句などの娯楽や行事が庶民にも広まった時代でした。特に経済的に余裕のあった都市部の商工業者の間で独自の文化が発展し、のちに「町人文化」と呼ばれるようになりました。江戸時代を舞台にした時代劇に必ずといっていいほど登場する「町人」とは、一体どんな人たちだったのでしょうか。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦ 町人とは? ♦♦♦♦♦♦♦♦

 

町人とは、江戸時代の都市に居住していた職人や商人たちのことを指します。「浦方」「山方」に対して「町方」とも呼ばれ、女性は町女房と呼ばれました。江戸時代の身分制度における階級の1つでしたが、町人の中でも階級の差がありました。家屋敷を所有し表通りに店を構える「旦那衆」から、裏通りに「裏店」と呼ばれる小ぢんまりとした店を構える下層町人、没落した都市下層民までさまざまでした。

 

身分の高い「旦那衆」の役割  

 

旦那衆は、町政や公事に参加し、町年寄を選ぶ選挙権や被選挙権を持つなど、社会的身分や公的な権利と義務を持っていました。また、旦那衆の社会的役割の1つとして、賃貸しの長屋を格安の店賃で店子に貸すという慣習がありました。大家を雇い、店子から家賃を取立ててもらったり、生活の雑事の面倒を見てもらうなど、長屋の管理を任せました。大家は、店賃を免除されるなどの見返りを得ていました。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦ 町人文化とは? ♦♦♦♦♦♦♦♦

 

江戸時代前半、日本では社会的分業にもとづいた士農工商の身分制度が成立しました。大名たちは楽市楽座政策を行い、免税の特権や営業の自由を承認することで商工業者を城下町に誘致しました。これにより農業と商工業の職業分離が進み、商工業の専門性が高まりました。  町人たちは、優れた技術力と潤沢な資金を使い、独自の都市文化を形成、発展させ、貴族や武士などの特権だった文化や習慣が庶民にも広まって行きました。この大衆文化、都市文化は総じて「町人文化」と呼ばれ、多くの技術や芸術が現代にまで受け継がれています。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦ 食と住 ♦♦♦♦♦♦♦♦

 

 

主食は白米で、おかずは塩や醤油で味付けした野菜、魚、味噌汁、漬物などでした。食器は木の椀と陶器の茶碗、皿。テーブルはなく、低い脚のついたお膳を使っていました。飯はしゃもじでよそいって箸で食べ、食後は茶釜で煎じた茶を飲んでいました。この頃の江戸では、白米を食べることが「粋」で、江戸っ子の証とされていました。1人が白米を食べる量は1日当たり5合だったと言われています。必要なカロリーのほとんどを米で補っていたのでしょう。玄米の糠にはビタミンB1が含まれますが、白米のみを食べることでビタミンB1欠乏症の脚気になる人が多かったようです。この脚気は「江戸患い」と呼ばれていました。これに対して地方では、麦、ひえ、芋、干葉、大根などを玄米に混ぜて作る混飯(まぜめし)などが食べられていました。

庶民を対象にした外食産業も盛んで、都市部には居酒屋や茶屋があった。『宝船桂帆柱(たからぶねかつらのほばしら)』十返舎一九著、歌川広重画(1827年刊)

 

 

 

 

 

初物食い  

食べると寿命が75日延びると言われる「初物」。この頃、江戸っ子の間では「初物食い」競争が流行していました。初物は、「勝つ魚」に通じる初鰹や、初茄子、新茶などが人気でした。初鰹には1本に6両(今の価値で20万円以上)の値段が付けられることもあり、初物食いの行き過ぎを案じた幕府が「初物禁止令」を出すほどでした。

 

初鰹売り『東都歳事記』「初夏交加図」斎藤月岑(げつしん)編 (1838年頃)

 

 

 

 

家屋は、柱を土中に埋め込む「掘立柱建物」から、台石の上に柱を組み立てる「礎石建物」へと変わり、それまで一代限りだった家は何代にもわたって長持ちするようになりました。都市部では、火災防止のための瓦屋根、塗屋造、土蔵造の商家が現れ、板敷きや畳の床が一般的になりました。また、ハレの日に使うための座敷や、先祖の位牌を置く仏間などが設けられるようになりました。

 

長屋

【裏長屋】裏路地に建てられた裏長屋には、「割長屋」と「棟割長屋」の2種類がありました。「割長屋」は棟と垂直方向に部屋を仕切ったアパートのような造りで、内には土間と六畳間があり、梯子をかけた中二階もありました。「棟割長屋」は、割長屋の棟の中に壁を作って仕切られたものでした。幅は9尺(約2.7m)、奥行きは2間(約3.6m)で、広さは6畳間くらいの広さでした。そのうちの1畳半は土間として使われていました。裏長屋1棟の家賃は、現代のお金に換算すると1万円弱でした。世帯収入は月10万円程度だったと言われています。 長屋は、畳や家財道具が付いていない「裸貸し」が一般的でした。

【表長屋】比較的裕福な小商人などが住んでいた表長屋は、1棟に8畳と4畳の2間と土間がありました。日当たりもよく、4畳の部屋で小間物や荒物などを売る人もいました。風呂とトイレ町人は銭湯へ行くのが一般的でした。この時代は湯船のある風呂ではなく蒸し風呂で、湯浴みのための浴衣を着て入浴していました。裸ではなかったため男女混浴で、銭湯は人々が交流する場所としても使われていました。トイレは、長屋の場合は近所の人と共同の厠が使われていました。 照明元禄年間に生蠟の増産や搾油機が改良され、灯油が一般家庭に普及して行きました。灯火には、菜種油や綿実油が利用されていたようです。これによって夜間に屋内で活動できる時間が延び、夜に裁縫や糸紡ぎなどの手仕事が行われるようになりました。