19世紀ヨーロッパの画壇にも影響を及ぼした浮世絵は、江戸時代に成立した大衆文化の1つです。
浮世絵は、平安時代の国風文化で発達した大和絵の流れを汲む日本画で、特徴として、構図の大胆さ、明確な図柄に影の表現がないということがあります。「浮世」という言葉には「現代風」「当世」などの意味がありますが、浮世絵は、当時の風俗を描く風俗画として、人々の日常、行事、風物、演劇、古典文学、和歌、伝説、奇談、肖像、風景など、さまざまな事物がテーマになっています。浮世絵、特に木版画は、現代の絵画のように額に入れて飾るものではなく、手に取って眺めるものでした。
浮世絵の種類
肉筆浮世絵
手描きの1点もので、有名な絵師の作品には高値がつけられました。
これらを購入する顧客は、大名や裕福な商人などでした。
肉筆浮世絵は、大まかに以下の種類に分けられます。
【屏風絵】 折った屏風に絵を描くことで独特の立体感を現したもの。正面、右、左などさまざまな方向から、それぞれ違った趣で鑑賞することができます。
【絵巻】 横長の紙か絹を水平につないで長い画面を作り、連続的に物語や情景などを著したもの。
【画帖(がじょう)】 何枚かの完成した絵をまとめて台紙に貼り付け、一冊に綴じた画集。あらかじめ綴じられた台紙と画用紙に、絵が直接描かれたものもあります。
【掛け物】 掛け軸のこと。
【扇絵】 扇に描かれたもの。
【絵馬】 神社に奉納する絵馬。
【画稿】スケッチのこと。
【版下絵】版画の版木を彫るために描かれた下絵。
木版画 木版による印刷画で、同じ絵をたくさん作ることができたため、値段は安く、一般庶民でも購入できました。版木には、主に桜材が使われていました。
版本の挿絵 木版で刷られた本の挿絵。
浮世絵の歴史
1657頃〜1760年頃…1〜4色の木版画が登場
肉筆画に加えて墨摺絵(すみずりえ)という墨一色の木版画が登場しました。その後、墨摺絵に赤い顔料を着色した紅絵(べにえ)や、紅絵の黒い部分に膠を塗って光沢を出した漆絵が登場。これらの彩色は、筆による手描きでした。その後、紅絵に緑、黄などの2、3色を刷って加えた紅摺絵(べにずりえ)が登場。また、墨の代わりに露草の青のようなインクで印刷する彩度の低い多色刷りもあり、これは水絵と呼ばれていました。
初期の絵師
【菱川師宣(1618〜1694)―浮世絵の祖】
「浮世絵の祖」と呼ばれる菱川師宣は、それまで挿絵などだった浮世絵版画を、単独で鑑賞する芸術的なものに高めました。この時期、木版画の登場に伴い木版画の下絵を描く「版下絵師」が登場し始めましたが、その中の一人が浮世草子に挿絵を描いた師宣でした。挿絵を描いた作品の中では、1682年に刊行された井原西鶴の浮世草子『好色一代男』(江戸版)が有名です。『好色一代男』には「12本骨の扇子に浮世絵が描かれていた」という一文が見られますが、これは「浮世絵」という言葉が確認できる最古の文献と言われています。絵本は100種以上、好色本は50種以上と、多くの墨摺絵入り版本を手がけました。一方で、屏風、絵巻、掛幅などの肉筆浮世絵も描き、特に女性たちの描写において高い評判を得ました。肉筆浮世絵の代表作に『見返り美人図』があります。
【鳥居清信(1664〜1729)―鳥居派の創始者】
現在も歌舞伎の看板絵を制作している鳥居派の創始者です。1687年、父の鳥居清元と共に大坂から江戸に下り、20代で若衆歌舞伎に関係したことから歌舞伎絵を手掛けるようになりました。「瓢箪(ひょうたん)足」「蚯蚓(みみず)がき」といった役者絵の描写法を確立し、鳥居派の基礎を築きました。
中 期
1765〜1806年頃…色鮮やかな多色刷りが登場
主な出来事:前野良沢、杉田玄白らの『解体新書』刊行(1774)、平賀源内がエレキテルを復元(1776)、伊能忠敬が蝦夷地を測量(1800)
1765年頃、江戸の俳人を中心に「絵暦」という絵にカレンダーを描き込んだものが流行し、絵暦交換会が頻繁に催されるようになりました。それに伴い、木版多色刷りの浮世絵(東錦絵、江戸絵)が登場。多色刷りは、何度か刷っても傷まない楮(こうぞ)が原料の越前和紙、伊予柾紙、西ノ内紙などが使用されたことや、重ね刷りの時の目印の付け方などが工夫されたことによって実現しました。景気の安定も相まって、下絵師、彫師、摺師の分業による制作体制も確立されていきました。 こうして庶民にも広まり始めた浮世絵は、この後、文化としての隆盛期に入ります。
【喜多川歌麿 (1753頃〜1806)―美人画で有名な反骨の浮世絵師】
繊細で優雅な美人画で有名。それまで一般的だった全身ではなく、顔を中心とする美人画の構図を考案し、さらに背景を描かかずに白雲母を散りばめたりしました。遊女、花魁、茶屋の娘など、無名の女性を多く描きましたが、歌麿が彼女たちの浮世絵を描いたことでたちまち江戸中で有名になるということもあり、以来、浮世絵は媒体のひとつとなりました。 これに対し幕府は「世を乱すもの」としてたびたび制限を加えましたが、歌麿は判じ絵などで対抗しつつ、美人画を描くのを辞めませんでした。
しかし、1804年、豊臣秀吉の「醍醐の花見」を題材に「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことで幕府に捕縛され、手鎖50日の刑に服しました。当時は、芝居や浮世絵などの題材として豊臣秀吉をそのまま扱うことが禁止されていました。さらに、絵の中に北の政所、淀殿、側室たちに囲まれて花見酒に興じる秀吉が描かれていたことが、当時の将軍・家斉を揶揄する意図があったとされたようです。この刑の後、歌麿はやつれて病気になってしまいました。しかし彼の人気は不動のままで、歌麿は回復する見込みがないという噂を聞いた多くの版元が、これが最後というように、次々と版下絵の依頼をしたと言います。
【東洲斎写楽(生没年不明)―10カ月で姿を消した謎の絵師】
写楽は、1794年(閏11月があった)5月から1795年1月にかけて、約10カ月という短い間に約145点の役者絵などを版行しました。その後、突然画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られています。彼の出自、経歴についていろいろな調査や研究がされていますが、現在は、阿波徳島藩主蜂須賀家のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛(1763〜1820)だったという説が最も有力です。