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日本の寿司文化 

Bynikkansan

5月 25, 2019

今や世界中の都市で食べられるようになった日本の寿司。

ここハワイでも、ファストフード風、ローカル風にアレンジされた手軽なものから、日本の本格的な握り寿司までさまざまな寿司を味わうことができます。今回のエキストラ特集では、私たちに身近な寿司の起源、歴史、さまざまな種類、興味深い寿司屋の専門用語などをご紹介したいと思います。

 


寿司・鮨・鮓の違い

すしの漢字表記といえば「寿司」が最もポピュラーですが、寿司屋の看板などで「鮨」や「鮓」という字を見かけることがあります。「鮨」と「鮓」の字は、昔はそれぞれ魚料理の「うおびしお」と「つけうお」を意味していました。そこに「すし」という読みがなを当てたのです。「寿司」は、おめでたい意味の当て字を使ったもので、朝廷に鮓を献上する際に使われていました。寿司が庶民の口にも入るようになった江戸時代、江戸では「鮨」、大坂では「鮓」が使用されていました。「すし」という読み方の起源は、江戸時代、シャリの酸っぱさから「酸し」と呼ばれるようになったことと言われています。

 


寿司の歴史

寿司の起源は東南アジア 魚を発酵させて保存

 日本の寿司の起源は、紀元前5世紀以前に東南アジアで行われていた魚の保存方法と言われています。ラオスの山岳民族やボルネオの焼畑民族など山岳地帯に住む人々は、手に入りにくかった魚を塩漬けにし、発酵させることで長期保存していました。

 

 また、既に稲作が行われていたタイ東北部やミャンマーの平野部では、塩を付けた淡水性の魚介類などを炊いた飯の中に入れ、発酵させることで長期保存していたと言います。飯は食用ではなく、漬け床として利用するものでした。これは「熟鮓(なれずし)」と呼ばれるもので、現在の滋賀県の琵琶湖周辺の特産物「鮒寿司(ふなずし)」はこれに近いと考えられています。

 

 

東南アジアから中国へ 外来の珍味

「鮨」という漢字が始めて使われたのは、紀元前5〜3世紀頃の中国で成立した辞典『爾雅』の中の「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢(ひしお)という」という一節でした。ここで説明されている鮨は、魚の塩辛のようなものだったのではないかと推測されています。古代中国では、魚の塩辛や熟鮓のような「鮨」はポピュラーな食べ物ではなく、東南アジアから伝わった珍味のような扱いだったといいます。

 

 

中国から日本へ 寿司の日本史

奈良・平安時代……朝廷への貢物  

熟鮓が日本に伝わったルートとして、一説には、稲作と共に中国の長江周辺から九州へ伝わったと考えられています。奈良時代には朝廷への貢物の1つとして、鯛、鮑、い貝(烏貝)などの熟鮓が近江や若狭から献上されていました。

 

 平安時代に租税法が成立すると、九州、西日本、東海の各地から鮒、鮎、鮭などさまざまな種類の熟鮓が朝廷に納められるようになりました。この時代、熟鮓は皇族や貴族の口にしか入らない高級な珍味で、東南アジアの熟鮓同様、飯の部分は除いて食べられていました。

 

 

鎌倉・室町時代 ……生熟鮓の登場で米も食べるように

 鎌倉時代に入ると、残り物の魚を利用した熟鮓が登場します。米が庶民の口に入るようになった室町時代には、「生熟鮓」または「半なれ」と呼ばれる鮨が一般的になりました。生熟鮓は、従来の熟鮓のように何ヶ月も発酵させず、短期間だけ漬け込むというもの。桶に塩をまぶした魚と飯を交互に入れていき、蓋をして重しをのせ、数日間放置し、軽い酸味が出てきたところを取り出して、漬け床の飯と一緒に食べました。

 

 この生熟鮓の登場で、発酵させた魚介類だけでなく塩味や酸味のある飯も食べられるようになり、ネタも魚介類だけでなく、野菜や山菜なども使われるようになりました。現在の押し寿司や箱寿司にその名残を見ることができます。

 

滋賀県琵琶湖湖畔特産の鮒寿司。熟鮓の原型を残している

 

江戸時代 ……おにぎりほどの大きさの握り寿司が登場

 江戸時代中期に一般化した米酢は、待たずにすぐ食べられる寿司を誕生させました。米に酢を加えて酸味を作ることで、発酵させる必要がなくなったのです。これは、幕府の御典医だった松本善甫という人が発案したとされ、「早寿司」と呼ばれました。従来の寿司のように重しをして味をなじませるのですが、その時間は数時間から一晩とぐっと短くなります。

 

 江戸時代後期には、両国の寿司職人、花屋与兵衛が酢でしめたネタと酢飯を重ねて握る握り寿司を考案。その握り寿司は現在のおにぎりほどの大きさがあり、2、3切れに切って食べてられていました。現在の握り寿司で、1皿に2貫盛るのはこの名残です。稲荷寿司を売り歩く「振り売り」も登場しました。

 

浮世絵に描かれた江戸時代の寿司(歌川広重画)

 

 

明治・大正時代 ……製氷技術の向上でネタに刺身が使われ始める

 明治時代に入ると、握り寿司のネタのうち、醤油に浸したり酢締めで味をつけていた生物は「ヅケ」と呼ばれるようになりました。明治30年(1897年)頃からは製氷産業が盛んになり、寿司屋でも氷でネタを冷やして保存することができるようになりました。漁法や流通も発展し、ネタに生の刺身が使われるように。寿司職人は、刷毛を使ってネタに煮切りしょう油を塗って出しました。現在の本格的な寿司店での寿司の出され方はこの時代に確立したのです。

 

 大正時代初期には、電気冷蔵庫を導入する寿司店も出てきます。ネタの種類も増え、サイズも徐々に小さくなり、現代の握り寿司に近いものとなりました。大正12年(1923年)に関東大震災が起こり東京の街は壊滅状態になりますが、その際、寿司職人たちが地方へ引っ越したため、江戸前寿司が全国に広まったと言われています。

 

 

昭和時代 ……持ち帰り専門店や 回転寿司の登場

 第2次大戦後の昭和22年(1947年)、飲食営業緊急措置令が施行され、寿司店の営業が難しくなりました。そこで東京の寿司店の組合員たちが政府と交渉し、1合の米と握り寿司10個(巻き寿司は4本)を交換できる「委託加工」という形で、寿司店の営業を継続させることに成功します。

 

 昭和30年(1955年)からの高度成長期、衛生上の理由から屋台の寿司店が廃止されたことで寿司は料理店のみの経営になり、それまで庶民的だった寿司の敷居が少し高くなりました。

 

 しかし、昭和33年(1958年)に大阪で初の回転寿司店「廻る元禄ずし」が開店。続いて、持ち帰りができる寿司店「京樽」や「小僧ずし」なども登場します。昭和55年(1980年)頃にはそれらが全国に普及したことで、寿司は再び庶民的なものに返り咲きました。