日本のお土産といえば、各地のご当地銘菓や民芸品などが思い浮かびます。その土地限定と銘打った品物の数がこれほど多いのは、世界の中でも日本だけと言われています。旅行へ行った際にお土産のことが気にかかるのも、日本人のお土産に対する独特の考え方がうかがえます。 日本の習慣の中で重要視される土産の文化は、いつ、どのようにして生まれ、現在まで発展していったのでしょうか? 今回のエキストラ特集では、日本のお土産の文化史や各地の名産品など、お土産にまつわるあれこれをご紹介したいと思います。
お土産の文化史
家苞(いえづと)
古代の日本では、家に持ち帰る土産のことを家苞(いえづと)といいました。『万葉集』には8世紀に詠まれた次のような和歌があります。
「海神の 手纏の玉を 伊敝都刀(イヘヅト)に 妹に遣らむと拾ひ取り 袖には伊礼て 帰しやる 使無ければ」
“お土産”の起源
「みやげ」の語源は「宮笥」
土地の産物を意味する「土産」という単語は中国から入ってきた漢語です。現代中国語でも同じ漢字、同じ意味で使われています。元々の読み方は「どさん」または「とさん」でしたが、室町時代から「みやげ」と訓読みで読まれるようになりました。
土地の産物を持ち帰る習慣はどこから?
お土産の最初の形態は、寺社仏閣を参詣した人が、その証として授かったお札などの品物を故郷へ持ち帰るというものでした。その昔、村の代表者が伊勢神宮へお宮参りをするという習慣がありました。
村人たちは、お参りする代表者に餞別を渡し、自らの分まで祈願してくれるように頼んだと言います。これが「餞別」の始まりでもあるのですが、代表者はその餞別で、神札を貼る板「宮笥(みやこけ)」を買って帰りました。
伊勢神宮の周辺では、室町時代頃から参拝客をターゲットにした土地の産物などが売られるようになり、売りものの産物は宮笥にちなんで「みやげ」と呼ばれるようになったと言います。その後、土地の産物「みやげ」を売る習慣は全国の寺社仏閣周辺に広まっていきました。
土産文化が花開いた江戸時代
「参勤交代」で土産文化が発展
参勤交代は、江戸時代、全国に250以上あった大名家の藩主らが2年ごとに江戸に出仕し、1年経ったら国元へ引き上げるという制度です。
大名とともに多数の武士たちも上京しましたが、彼らが江戸を離れる際は、故郷への土産として、簪(かんざし)、鏡入れ、錦絵、煙草入れ、茶、農事暦など、持ち帰りやすく、日持ちするものを買って帰ったと言います。
江戸時代の庶民に人気だった土産とは?
江戸時代、それ以前はあまり一般的でなかった旅が、主に寺社仏閣を詣でるという形で庶民にも広まりました。各宿場町の神社やお寺の周辺では、その場所独自の名薬が多く作られており、お土産として人気を博していたと言います。
現代まで受け継がれている名薬として、三重県伊勢市の胃薬「萬金丹(まんきんたん)」、1300年の歴史を持つ奈良県大峰山の胃薬「陀羅尼助丸(だらにすけまる)」、神奈川県小田原市の万能薬「外郎(ういろう)」などがあります。
明治時代以降
その土地名産の食べ物が土産物に
明治時代に入ると、鉄道網が発達したことにより、それまでは現地でしか食べられなかった名産の食べ物を傷ませずに家へ持ち帰れるようになりました。また、全国の景勝地などが観光地としてブランド化していき、土地の見所を紹介したパンフレットや絵葉書なども作られるようになりました。
新しい土産物が誕生し続けた高度経済成長期
昭和29年から約20年間続いた高度経済成長期には、社員旅行、修学旅行、家族旅行で遠出をすることが一般化していきました。その頃人気だった土産物は、ペナントや通行手形、民芸品や郷土玩具など。饅頭などの「ご当地名菓」も次々と誕生しました。
現代の土産物といえば?
現代の土産物は、当地銘菓はもちろん、ご当地ストラップ、マグネット、ポーチ、クリアファイル、土地の農産物を配合したクリームなどの化粧品など多岐に渡ります。最近は、ペナントや通行手形をかたどったマグネットなど、昭和土産をコンセプトとしたものも人気なのだそうです。