古代日本の最終期、平安時代は、794年に桓武天皇が長岡京から平安京に都を移し、1192年*に鎌倉幕府が成立するまで約400年間も続きました。奈良時代からの律令政治が改められ、藤原氏による摂関政治や白河天皇の院政など、朝廷を中心とした王朝国家体制が隆盛を極める一方、華やかな貴族文化、さらに日本独自の国風文化が栄えた時代でもありました。今回の特集では、貴族の暮らしや国風文化を中心に、1000年前の日本をご紹介したいと思います。*1185年(文治元年)という説もあります。
『貴族の暮らし』
1日の流れ ー ゆとりのある生活
男性
平安時代の男性貴族は、役所である宮中で、現代の政治家のような国政や公務員のような事務、雑務をしていたようです。勤務時間は約4〜5時間と短く、午前7時頃に出勤し、昼前には終業していました。その後自宅に戻り、昼食をとって、午後は蹴鞠をしたりしてゆったりと過ごし、宿直(夜勤)や宴会がなければ8時頃には就寝していました。貴族の男性にとって、教養を身につけ、社交術に長けることが出世の条件だったため、蹴鞠などの遊びも仕事のうちでした。
【午前中】
●午前3時頃、起床。御所の門が開くときの合図「開諸門鼓」が目覚ましだった。
●陰陽道で、北斗七星のうち生まれた年の干支に当たる星「属星(ぞくしょう)」の名前を7回唱える。星の呼び名はそれぞれ、貪狼星(たんろうせい)巨門星(こもんせい)、禄存星(ろくそんせい)、文曲星(もんごくせい)、廉貞星(れんていせい)、武曲星(ぶごくせい)破軍星(はぐんせい)。
●暦でその日の吉凶を占い、結果が悪かった場合は家にこもって御所への出勤も取りやめていた。欠勤理由としてよくあることだったため、咎められることはなかった。
●鏡で顔をチェック。
●楊枝で歯磨きをする。
●西に向かって手を洗う。
●尊重している仏の名を唱え、信仰する神社を心に浮かべてお祈りする。
●昨日を振り返って日記を書く。
●軽食としてお粥を食べる。
●髪をすく。
●3日に1回、爪を切る。手の爪は丑の日、足の爪は寅の日に切っていた。
●5日に1回、縁起のよい日に沐浴する。
●衣服を身に付ける。
●午前7時頃、御所に出勤。
●午前11時半頃、退勤。
●帰宅。
【午後】
●和歌を詠んだり、囲碁をしたり、庭で蹴鞠をして過ごす。
●午後6時頃、夕食。
●季節によって、釣殿で月見を楽しんだり、宴会をしたりする。
●予定がなければ、午後8時頃に就寝。
女性
女性は、基本的に住居の外には出ませんでした。高貴な女性では、立ち歩くのすらまれな人もいたといいます。午前中の行動は、衣服を身に付けるところまでは大体男性と同じですが、その後は囲碁や貝合わせで遊んだり、女房たちと集まって絵物語を眺めたり、和歌を詠んだり、お喋りをしたりなどして、ゆったりと1日を過ごしていました。
服装 − 毎日がフォーマルウエア
男性
●束帯(そくたい): 貴族の男性の正装で、「日の装束」とも呼ばれました。中の方から、単(ひとえ)、袙(あこめ)、下襲(したがさね)、半臂(はんぴ)、袍(ほう)を着て、腰に革製のベルト、石帯(せきたい)を締めます。袴は2枚あり、大口袴(おおぐちばかま) の上に表袴(うえのはかま)を履き、頭には冠を乗せ、足には襪(しとうず)を履きました。懐には帖紙(たとう)、檜扇(ひおうぎ)を入れ、笏を持ちます。公卿や殿上人は魚袋(ぎょたい)という魚の模様があしらわれた板状の装飾を石帯に吊るしました。
●衣冠(いかん):主に宮中で着用された勤務服で、「宿直装束」とも言います。束帯とほぼ同じ作りですが、下に着る物がいくつか省かれています。ベルト部分は衣装の共布でできた「くけ紐」で、ゆったりした袴は「指貫(さしぬき)」と呼ばれます。身分や役職により、色や模様が異なりました。
【豆知識】
平安時代の日本の人口は500〜600万人だったと言われ、そのうちの12万人が平安京で暮らしていました。平安京に住む人々のうち、貴族は約1600人、貴族に使える官人は約1万人でした。 |
女性
貴族の女性は、普段から十二単を着ていました。「唐衣裳(からぎぬも)装束」「女房装束」とも呼ばれます。上半身には、外側から羽織る形の唐衣(からぎぬ)、表着(うえのきぬ)、紅染の打衣(うちぎぬ)、袿を5枚重ねた五衣(いつつぎぬ)、単衣(ひとえ)を着て、下には筒状で緋色の長袴(ながばかま)を履き、裳(も)という布を腰で結んで後ろに垂らしました。
食事 − 元祖ジビエ
●主食:強飯や粥、うどんのような麺類
●主菜:イワシ、アユ、貝類、ハト、スズメ、ヤマドリ、イノシシ、クマ、タヌキ、ウサギ、アザラシ、アシカなど
●副菜:大豆、小豆、黒豆、ネギ、ニラ、セリ、ジュンサイ、ナス、タケノコ、キノコ、イタドリ、タラの芽、瓜、桃、柿、柑橘類など御所や貴族の家には「庖丁師」と呼ばれる人がいて、調理を担当していました。調理法は焼く、蒸す、煮る、干物にするというもので、揚げものはありませんでした。基本の味付けは塩と酢で、他には醤(ひしお)、ワサビ、はじかみ(ショウガ)などで調味していました。
住居 − 陰翳礼讃!
【寝殿造】
位の高い貴族の家は「寝殿造」という様式で建てられました。敷地は一町(約109m)四方で、泥土をついて固めて作った「築地塀(ついじべい)」で囲まれていました。敷地の中心には南向きの寝殿を建て、寝殿の北側、東側、西側にそれぞれ北の対、東の対、西の対と、「対の屋」という別棟を建てました。寝殿とそれぞれの対の屋の間は渡り廊下の「渡殿」、両側に壁のない渡り廊下「透渡殿(すきわたどの)」でつなぎました。寝殿の南側に造られた庭園には、南へ向かって左右に広がる池があり、池の中心に島が作られ、岸と島を橋で渡しました。池の東西に建てられた吹き放ち式の建物「釣殿」では、納涼や宴会、月見などが行われました。
中心となる寝殿には、主に家長の男性が暮らしていました。寝殿の周囲には一間(182㎝)ごとに「廂(ひさし)」という柱が建てられました。廂の外には「簀子(すのこ)」という縁側があり、廂と簀子の間は、角材を縦横に格子状に組んだ「格子」で仕切られていました。建物の内部は丸柱が建つ吹き放ち式の空間になっており、「御簾」「屏風」「几帳」で間が仕切られていました。床は白木の板で、座る時は、畳や、い草を渦巻き状に編んだ敷物「円座(わろうざ)」を敷きました。
【照明】
●燈台(しょくだい):室内用で、油を入れた燈盞(とうさん)に、油を含ませた点燈芯を浸して火をつけたものです。本体は金属や木でできており、紙や布の芯にゴマ、エゴマ、麻、椿の油が浸されていました。
●燈籠(とうろう):主に縁側で使われました。天井や軒先に吊るして使う家のような形の釣燈籠や、下に置いて使う台燈籠など、いろいろなタイプのものがありました。
●紙燭(しそく):移動の際に使われました。細く割った松の木を炭火で炙って火をつけ、握る部分には紙がまかれていました。
●松明:庭や玄関を照らすのに使われました。松の木に、松ヤニや油を浸した布を巻き、それに火をつけていました。
【風呂】
貴族の屋敷には「湯殿」「風呂殿」と呼ばれる風呂場がありました。お湯に入るのではなく、密室になっている湯殿に沸かしたお湯を運び入れ、蒸気を充満させて入る現代のミストサウナのような蒸気風呂でした。入浴中は下に布を敷いて座ったのですが、この布がのちの「風呂敷」の語源になりました。風呂を出た後は湯で体を流し、召使いに手ぬぐいで拭いてもらっていました。
【トイレ】
屋敷内にトイレはなく、用を足す時は「樋箱(ひばこ)」または「樋殿」「御小用箱」と呼ばれた持ち運びできる木の箱を使っていました。トイレットペーパーの代わりに、木片を柔らかくしたものなどがつかわれていました。樋洗(ひすまし)という召使いが樋箱の管理をしており、排泄物が溜まると近くの川まで流しに行きました。溜まるまでは家に置いていたので、屋内は常に臭かったと言われています。平安時代の物語などに「おくゆかしいもの」として登場するお香は、主に樋箱から漂ってくる臭いを消すために焚かれていました。実は、奈良時代に原始的な水洗トイレがあったのですが、平安時代には使われていなかったと言われています。
『庶民の暮らし』
住居 − 半アウトドアライフ
庶民の大半は農民で、他に商人や漁師もいました。地方の庶民は、竪穴式住居や簡素な小屋に住んでいました。洞穴に戸を建てて住んでいる庶民もいたようです。平安京に住む庶民は、床や土間のある一般家屋に住んでいました。
【風呂】
川や池で水浴びをしたり、村に設置された公共の蒸気風呂に入って体を清めていました。蒸気風呂は、小屋や洞窟などを密閉し、沸かしたお湯の入った釜を中に入れる、または石を置いてそれを温め、そこに水をかけて湯気をたてるという構造だったと考えられています。蒸気で温まった後は、葉っぱや木片などで体をこすって垢を落としました。『枕草子』ではこの蒸気風呂について「小屋ありて、其の中に石を多く置き之を炊きて水を注ぎて湯気を立て、その上に竹の簀を設けてこれに入るよしなり。大方村村にあるなり。」と記されています。
【トイレ】
樋箱を使う庶民もいましたが、多くの人々は外で用を足していました。用を足す時は高下駄を履き、衣服の裾を汚さないようにしていました。後期には、穴を掘って用を足す汲み取り式のトイレが登場しました。
食事 − 粗食
麦、アワ、キビなどの雑穀を粥にしてかさ増ししたものや、干物や漬物など、日持ちがするものを食べていました。新鮮な食材を口にする機会は、ほぼなかったようです。
服装 − 簡易服
上下が分かれ、前で打ち合わせる「直垂(ひたたれ)」という衣服を着ていました。直垂は古墳時代から着用されていましたが、のちに庶民階級を受け入れつつ発展した武家社会でも着られるようになりました。
『平安時代の文化』
○国風文化
894年、中国の文化や技術を日本に伝えてきた遣唐使が廃止され、その後も中国からの商人が都に出入りして貿易は続いていたものの、遣唐使があった時代に比べると中国文化の日本文化への影響は直接的ではなくなりました。こうして、日本独自の文化「国風文化」が盛んになりました。国風文化は11世紀ごろに確立され、現代日本の建築物、芸術品などに受け継がれている日本的な美の概念を築きました。
【日本的な美とは】
一般に、西洋の美にシンメトリー(左右対称)が多いのに対し、日本の美にはアシンメトリー(左右非対称)が多いという特徴があります。アシンメトリーな構図と、それに対応する優美な曲線、大胆ながらも柔らかな色彩、余白を活かすデザインなどが、日本的な美の特徴とされています。
○仮名文字
読み書きに漢字が使われていた奈良時代、漢字の音を表す「万葉仮名」という文字がありました。平安時代に入り、万葉仮名や漢字を簡単にしたひらがな、カタカナの仮名文字が登場し、特に高貴な女性の間で好んで使われるようになりました。
○女房文学
858年、藤原良房が摂政となり、藤原氏の摂関政治が始まりました。摂関政治は、皇室に子女を嫁がせ、その子どもを天皇に立てることで摂政が外祖父となって権力を掌握するという「外戚政治」で成り立っていました。藤原氏は、天皇の歓心を入内させた子女へ向けるために、有能な女性たちを選抜して女房にし、子女に仕えさせました。藤原氏に選ばれた女房の多くは、地方を治める受領など、下級・中級貴族の出身でした。下級・中級の貴族たちは、自分の娘を女房にして絶大な権力を握る藤原氏との繋がりを持とうと、子女の教育には大変熱心だったと言います。このような背景から、この時代は、清少納言、紫式部、和泉式部など、多くの女性が優れた文学作品を著すことになりました。
【主な文学作品】
900年頃『竹取物語』仮名で記された日本最古の物語。作者不詳。『伊勢物語』歌物語。在原業平を主人公にしたとされ、仮名の歌と文で綴った文章を連ねる形で記されている。作者不詳。
905年 『古今和歌集』史上初の勅撰和歌集。醍醐天皇が紀貫之らに編纂を命じて作った。
974年頃 『蜻蛉日記』右大将道綱の母が記した日記。
996年頃 『枕草子』清少納言の随筆。
1005年頃 『源氏物語』紫式部が創作した物語。
1008年頃 『和泉式部日記』和泉式部が記したと言われている。
1010頃 『紫式部日記』
1018年 『和漢朗詠集』漢詩集。藤原公任(きんとう)が編集したもの。
1060年頃 『更級日記』作者は菅原考標の女(すがわらのたかすえのむすめ)。
1100年頃 『大鏡』歴史物語。作者不詳。 『今昔物語』説話集。作者は源隆国(みなもとのたかくに)と言われている。
1170年頃 『今鏡』歴史物語。作者不詳。
1190年頃 『山家集』和歌集。作者は西行。
○浄土信仰
9世紀前半、天台宗の僧侶だった慈覚大師(円仁・794〜864)が、中国北東部にある文殊菩薩の聖地、五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えました。その後、恵心僧都(942〜1017)が極楽往生に関する仏教書『往生要集』を記して天台浄土宗を大成し、阿弥陀仏を対象とした浄土信仰が広まりました。浄土信仰は、貴族のみならず庶民にまで浸透しながら、国風文化の建築や美術品にも影響を与えました。
○彫刻
平安中期、浄土信仰が浸透したことで阿弥陀如来像などの仏像の需要が高まり、木で作った部品を組み立てて作る「寄木造(よせぎづくり)」という技術が生まれました。寄木造では小さな木でも大きな仏像を作ることができる上、複数の仏師が流れ作業で作るため、大量生産が可能でした。
○絵画
中国風の絵画「唐絵」に対し「大和絵」と呼ばれる日本絵画の様式が生まれ、仏教絵画、山水(せんずい)屏風、壁画、物語絵などが多く描かれました。
(日刊サン 2018.03.19)
参考文献:「すぐわかる源氏物語の絵画」
監修 田口 榮一 執筆 稲本 万里子・木村 朗子 ・龍澤 彩 (2009年)
「平安朝の生活と文学」 池田 亀鑑
参考サイト:http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/heiankizoku.htm
参考文献はなんですかね?
やたは様 コメント頂きどうもありがとうございます。参考文献についてですが、追記させて頂きましたのでご確認頂ければ幸いです。