甲骨文字と漢字
現在も使われている唯一の古代文字
漢字は、古代中国の黄河文明で発祥した表語文字で、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明の四大文明の古代文字のうち、今でも唯一使われている文字です。その数は現在10万字を超えており、人類史上最も文字数の多い文字体系となっています。
ヒントは砂浜の鳥の足跡?
中国での文字の発祥は、黄帝の代、倉頡が砂浜を歩いた鳥の足跡をヒントに創った文字と伝えられ、文字として使える漢字が完成したのは紀元前14世頃と言われています。
「白」は人間の頭蓋骨の色に由来
古代メソポタミアの文字、楔文字のルーツが商取引の記録であるのに対し、黄河文明の漢字は政の方針などを決めるための占いに使われた文字がルーツです。初期は、動物の骨ではなく生贄となった人間の骨に刻まれており、これまでに占いに使われた1万4000体の人骨が殷時代の遺跡から発掘されています。例えば「白」は、実は人間の頭蓋骨の色に由来する象形文字です。このように、初期の漢字の始まりは、古代の血なまぐさい歴史によるものでした。
卜に使われた初期の漢字、甲骨文字
絵に近い文字も
甲骨文字はものの形をかたどって描かれた象形文字で、絵に近い印象のものも多くありました。一方で、ものの状態を現すための動詞や形容詞の文字もありました。現在の漢字の書体に似た部分もありました。その頃から使われている動詞を表す漢字の例として、女性が子供をあやす様子の「好」、人が木の側にいる様子を表す「休む」などがあります。「立」という漢字の原型は「人」ですが、これは地面を表す横棒の上に書かれたものです。 また、同じ音の単語を別の字で表すこともありました。例えば、鳥の羽を示す「翼」の原型は、同じ音で「次のこと」を示す単語に流用されましたが、これが後に今日まで使われている「翌」という字になりました。
「形声文字」を中心に多くの漢字が誕生
周の時代(紀元前1046年〜紀元前256年)に入ると、多くの新しい漢字が作られました。これは、商取引や外交などさまざまな場面で漢字が使われるようになり、それまでの漢字の種類と数では足りなくなったことが理由でした。特に、別の種類の意味を表す文字や部首を組み合わせた「形声文字」が発達しました。
「青」は井戸端に芽生えた新芽
この時代に作られた形声文字の例として「青」があります。清らかで澄んだ様子は「セイ」と発音されていましたが、この音と、青い新芽が水際の井戸端に生えた様子が「セイ」だったことから、「青」という象形文字が生まれたと言われています。「セイ」という発音と文字「青」は、「清らかで澄んだ」様子のものの名詞にも使われ、それらの名詞にも、それぞれ「青」にちなんだ漢字があてられました。例えば、「晴」は太陽の光が清らかで済んだ様子、「清」は水が清らかで済んだ様子といった具合です。
「侖」は揃えられた短冊
「リン」もしくは「ロン」と発音される「侖」は短冊を揃えた様子を表す象形文字ですが、そこから「揃えたもの」全般を示す文字になりました。先ほどの「青」→「晴」のように、揃った車は「輪」、整然とした理論は「論」、整った人間関係であれば「倫」という漢字が作られました。こうした共通の部首を持つ漢字のグループは「漢字家族」と言われます。「綸」「淪」「掄」など、他の漢字家族がどんな理由で作られたのか、考えてみると面白いかもしれません。
ものごとが感性的に捉えられた文字
1世紀頃、後漢の儒学者・許慎(きょしん)がまとめた中国初の字書『説文解字』には9353字の漢字の成り立ちなどが掲載されています。そのうちの8割は形声文字で、後の2割は音素文字や単音文字になっています。こういった漢字の成り立ちの背景には、ものごとを感性的に捉えた後、型にはめて固定させるという中国の考え方や習慣が影響しているとも言われています。
字体が各地で独自に発展
周時代末期の混乱した時代、漢字は各地で独自に発展するようになり、春秋戦国時代には通じる字体が地方ごとに異なるという状態になりました。その後、秦の時代の始皇帝(紀元前259年〜紀元前210年)が字体統一を行い、「小篆(しょうてん)」という共通の字体を作りました。小篆は、秦の本拠地、西周の周王朝から受け継がれたもので、その書式はエジプトのヒエログリフのように威厳を表すために難解に作られていました。
字体の簡略化
後漢時代に入ると、下級役人たちによって、小篆の装飾的な部分が省かれ、使いにくい曲線は直線にするなど、簡略化した字体で書かれるようになりました。最初は毛筆で竹簡や木簡に書き込む漢字に使われ、その後は書物に使われたり、石碑に刻まれたりするようになり、最終的に「隷書(れいしょ)」という字体になりました。この隷書の走り書きが「草隷」で、草隷が変化して「草書」になりました。また、隷書をさらに直線的に書いたものは「楷書」になり、楷書が崩された字体「行書」も誕生しました。
明朝体が確立するまで
唐の時代には書写が一般的になり、漢字の字体に地域や個人独特の癖や崩れが生まれました。科挙の試験に合格した高級官僚の間では「正字」という由緒ある字体が使われましたが、庶民は「俗字」や「通字」と呼ばれる字体を使っていました。宋の時代に入ると、仕事で文字を使う商人や手工業者たちが社会の中心になり、俗字が広く一般化していきます。その後、木版技術が発展するとともに、楷書の印刷書体「宋朝体」が書体が誕生しました。明代から清代にかけては、『康熙字典』に掲載されている「明朝体」が確立しました。
<参考文献>
・マグダーモッド,ブリジッド/近藤二郎./竹田悦子(2013)『古代エジプト文化とヒエログリフ』ガイアブックス.
・笈川博一(2014)『古代エジプト 失われた世界の解読』 講談社.
<参考URL(2019年6月18日閲覧)>
・Ancient-Wisdom ”The Sumerians”http://www.ancient-wisdom.com/sumeria.htm
・地球ことば村「世界のことば」http://www.chikyukotobamura.org/muse/LoW.html
・Wikipedia 「文字体系の一覧」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/文字体系の一覧
・Wikipedia「文字の歴史」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/文字の歴史
<画像出典> Public Domain, Wikipedia 他
(日刊サン 2019.06.22)