日本の玩具
玩具には、コマ、おはじき、けん玉、凧など、遊びの動作そのものを目的として考え出されたものと、人形、動物、乗り物、ままごとの道具など、実生活を模倣して考え出されたものの2種類があります。ここでご紹介するコマやビー玉などは、遊びの動作から創造された日本の玩具です。これらの玩具は古代に自然発生したものや大陸から伝来したもので、長い時間をかけて日本独自の形になりました。
独楽(こま)
紀元前
古代から世界各地で遊ばれていたコマ。その起源は古く、現存する最古のコマは、古代バビロニアの遺跡で発見された紀元前3000年のもの。紀元前1500年の古代エジプトの遺跡や、古代ギリシャ、古代インダスの遺跡からも発見されています。
古代から世界各地で遊ばれていたようですが、コマは発祥の地があるのではなく、個々の土地で自然発生したものと考えられています。その起源は、そのままの形でコマを作ることができる巻き貝やドングリではないかと言われています。
平安時代
「こま」という名前が見られる日本最古の文献は、平安時代中期に編纂された和漢辞典『和名類聚抄』です。その中で、コマは双六や鞠と同じ「雑芸具」というカテゴリーに入れられ、「古末都玖利(こまつぐり)」という名前で記されています。解説には「孔が空いている」という一節があることから、朝鮮半島から伝来した空洞のあるコマのことを指していると考えられています。
室町時代〜江戸時代
南北朝時代(1318-68)を描いた軍記物語『太平記』には「独楽を回して遊ぶ子どもの中で、10歳ほどの子どもが急に興奮して」という意味の一文があります。これは庶民の子どもの描写で、貴族のものだったコマが庶民へも広がっていたことが窺えます。
江戸時代に入ると、江戸や大阪を中心とした商品経済が発展し、さまざまな種類のコマが登場します。この時代に創られ、全国各地で流行したコマには、ベーゴマの前身となった貝ゴマ、指でひねって回す銭ゴマや花ゴマ、糸を巡らせて回す博多ゴマ、鞭のようなもので叩いて回す叩きゴマなどがあります。
この頃からコマ回しは男の子の遊びと認識されるようになったほか、長く勢いよく回り続けることから、お正月の縁起物にもなりました。
ビー玉
歴史
ビー玉の語源は、ポルトガル語でガラスを意味する「ビードロ」です。世界で最も古いガラスの製造は紀元前3000年頃のシリア周辺、メソポタミア文明で始まったと言われており、その頃の遺跡からビー玉が出土しています。日本のビー玉遊びの起源は、平安時代の「銭打ち」という賭博遊びです。
江戸時代には「穴一」と呼ばれるようになり、子どもの遊びとして発展していきました。使う「ビー玉」は、数珠にも使われるムクロジの実でしたが、明治時代になると泥玉が作られ、明治30年頃から関西を中心にガラスのビー玉が出回るようになりました。
関東に普及したのは明治35年頃。以降、全国へと広まっていきました。その背景には、20世紀初頭にアメリカでガラス製ビー玉の製造機が発明され、それまでの手作りから大量生産できる機械での製造に移行したことがあります。
昭和40年代以降はあまり遊ばれなくなったものの、現在もコレクションやインテリアなどの用途で親しまれています。
地方によって違うビー玉の呼び方
ビー玉には、地方ごとにいろいろな呼び名があります。共通語では「ビー玉」「ラムネ玉」、近畿地方では「ビーダン」、山陽地方や瀬戸内海では、英語でビー玉を意味する”marble”が転じて「マーブル」「マーブロ」と呼ばれていました。これは、明治時代から始まったハワイやカリフォルニアへの移民にこれらの地方出身者が多かったことと関係があるのではないかと言われています。
また、昭和30年代の広島県では地域によって呼び方が別れていました。三原市では「ビー玉」、隣町の糸崎町では「ビーごろ」、尾道市では「ラッコー」「ラッター」などと呼ばれていました。
国内唯一のビー玉製造会社
大阪市平野区にある松野工業は、現在、国内で唯一のビー玉製造会社です。 同社のホームページ(www.matsuno-b.com)では、ビー玉の製造過程など、普段は中々触れることのないビー玉の豆知識を見ることができます。
おはじき
おはじきも古代から世界中で遊ばれていたものの1つです。日本でも、奈良時代以前から小石、貝殻、木の実などを使ったおはじき遊びがあり、漢字では「御弾」と表されていました。
おなじみのガラス製おはじきが登場したのは、明治時代の末期。『近代子ども史年表 明治・大正編』 (下川耿史編 河出書房新社)によると、「明治35年にガラス製のおはじきが出回り、翌年には名古屋でおはじきが流行した」ということが記されています。
また、明治36年3月に発行された雑誌『風俗画報』には「昨年の暮頃より名古屋、岐阜に掛けてハジキと云う玩具、五六才より十二三才の男女の間に盛んに流行せり」という一文があります。
大正時代後期になると、駄菓子屋の「1銭玩具」として子どもたちの人気を集め、第2次大戦後にはプラスチック製のおはじきも出回るようになりました。
けん玉
江戸時代 宴席での遊びや占いの道具だったけん玉 けん玉が日本に伝わったのは江戸時代中頃。当時、唯一外国へ開港されていた長崎港から入ったと言われています。
江戸時代後期に編纂された遊びの図解『拳会角力図会(けんさらえすまいずえ)』(1809年)には、江戸時代版のけん玉「匕玉拳(すくいたまけん)」の欄があります。「木酒器玉(こっぷだま)」の図と共に、遊ぶ人が交代で5回、もしくは3回に1回玉を皿に入れ、勝ち負けを競うという内容が記されています。
国学者の喜多村信節が風俗、習慣、歌舞音曲などについて著した随筆『喜遊笑覧(きゆうしょうらん)』(1830年)には「安永六七年の頃拳玉と云もの出來たり」という一文があり、けん玉で投げた球をさらに受け、逆さに返して細い方へ乗せるという遊び方も記されています。
安永6、7年は1777、1778年で、その頃は大人が宴席で遊ぶものでした。その日の吉凶を見るなど、占いにも使われていたようです。
明治時代
1876年(明治9年)に文部省が発行した児童教育解説書『童女筌(どうじょせん)』に、「盃及び玉」としてけん玉が紹介されました。以来、けん玉は子どもの遊びに変化し浸透していきます。大正時代に入ると、広島県呉市で「日月ボール」という現代でも見られる形のけん玉が発売されました。日月ボールは、今からちょうど100年前の1919年に実用新案として登録されました。
けん玉の流行
けん玉のように、2つのものを紐などで結び、一方を振ってもう一方に乗せるという玩具は世界中で遊ばれています。アメリカ本土・五大湖周辺に居住するインディアンの「ジャグジェラ」、エスキモーの「アジャクゥァク」、メキシコの「バレロ」、イギリスの「カップ・アンド・ボール」フランスの「ビルボケ」アイヌ民族の「ウコ・カリ・カチュ」などがあり、その組み合わせは、鹿の角と木の玉、ワイングラスと毛糸の球などさまざまです。
フランスのビルボケは、16世紀頃から庶民から貴族まで老若問わず遊ばれ、フランス国王アンリ3世(1551-1589)も愛好家でした。木製の球と細長い棒のついた台で構成されており、現在の日本のけん玉の起源と言われています。
凧(たこ)
起源は中国
凧の起源は紀元前4世紀頃の古代中国で、発明したのは中国で工匠の神として祀られる魯班(ろはん)と伝えられています。魯班が竹で作成したカササギ型の凧は、3日間連続で揚がり続けることができたのだそう。
同時代に書かれた軍事書『韓非子』には、魯の思想家・墨翟(ぼくし)が、木製の凧を3年がかりで作ったと記されています。現在の中国の凧は、鳥、獣、昆虫、鳥、鳳凰、龍などの生き物をかたどったもの。高価な凧として、竹の骨組みに絹が張られ、絵や文字など描かれたものがあります。
軍事目的で使用された中国の凧
古代中国の凧は軍事目的で使われていました。戦の際、前漢の武将・韓信(?-前196年)は凧を使って測量をし、梁の武帝(前156-前87)は凧を使って暗号を送ったとされています。また13世紀、蒙古軍が宋の都を包囲した際、包囲された人々は凧に文字を書いて揚げ、捕虜となっている味方のいるところで糸を切って落とし、彼らの蜂起を促しました。
凧の日本史
日本の伝統的な「和凧」は、竹の骨組みに和紙を張ったもの。地方によってさまざまな形があり、長方形の「角凧」の他、六角形の「六角凧」、奴をかたどった「奴凧」などがあります。日本史上、初めて凧が登場する文献は、平安時代中期に編纂された辞書『和名類聚抄』です。
紙鳶、紙老鳶(しろうし)という言葉で凧に関することが書かれており、その頃には日本に凧が伝わっていたことが窺えます。
室町時代頃からは、長崎に到着する交易船によって、中近東・インド発祥の「菱形凧」が持ち込まれるようになりました。菱形凧は15世紀頃の大航海時代にヨーロッパへ伝わり、オランダの東方交易によって東南アジアへ、そして長崎に伝わったと考えられています。
江戸時代の長崎では、菱形凧は南蛮船の旗の模様に由来し「ハタ」と呼ばれるようになりました。長崎の出島で商館の使用人として働いていたインドネシア人たちがハタで遊んでいたことから、江戸時代の長崎では凧が流行していたといいます。
また、大凧揚げが日本各地で流行ったものの、凧を降ろす時に屋根を壊すことが多かったのだとか。長崎でも、農作物に被害を与えるとして、凧揚げ禁止令が出されることもありました。
明治時代以降は往来が多くなったり電線が増えるにつれ、街中で凧が揚げられることがなくなっていきました。現在ではお正月の遊びや伝統行事の一環として凧が受け継がれています。
(日刊サン 2019.02.09)