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五感で愉しむ 日本の涼

Bynikkansan

9月 1, 2018

まだまだ厳しい暑さが続くハワイ。普段の生活では多くの方がクーラーを使っていると思いますが、たまには気分を変えて、クーラーの快適さに落ち着いた風情を加え、涼しさを演出する日本の涼をプラスαしてみてはいかがでしょうか? 昔の日本の人々は、蒸し暑い盆地の夏を扇子などの道具や部屋のしつらえを工夫することで凌ぎ、また人口密度の高い江戸では、風鈴の音を聴くなど、粋な涼を感じる過ごし方などで凌いでいました。 今回は、日本の伝統的な夏の涼を演出する風鈴、簾、ゴザ、団扇などの歴史や使い方、雑学をご紹介します。暑さ対策のヒントに、お役立てください。

 

?????団扇(うちわ)触覚、視覚?????

 

使いみち

扇いで涼む、濡れたものを乾かす、ものを飛ばす、火を起こす、料理などを冷ます、塵を掃う、陽射しをよける、虫をはらう、厄を祓う、権威を示す、顔を隠す、家紋などを表す、儀式でかざす、戦の時の軍配、客に渡しもてなしの心を現す、贈答、広告、盆踊りの小道具、縁起もの、装いの小道具、蛍狩り、籾殻を選別、大型のもので火消しをする、火の粉を払うなど。

 

歴史

古代から中世までの日本の団扇は、木、鳥の羽、動物の毛皮、蒲葵(びろう・ヤシ科の植物)、芭蕉の葉などで作られていました。翳(は、さしば)と呼ばれる大型のもので、主に儀式や権力者の権威を表す道具(威儀具)などとして使われていました。竹骨と紙が素材となった、現在の団扇の形が登場したのは室町時代末期でした。小型の翳、団扇という名前は、手に持ってハエなどの虫を打ち払うことから「打つ翳」と呼ばれ、これが「うちわ」に変化したものと考えられています。  団扇が一般庶民に普及したのは江戸時代。町民文化が花開くと同時に、炊事、装い、蛍狩り、祭りなどさまざまな場面で利用されるようになりました。

 

【古墳時代】

日本では、古墳時代から木製の団扇が使われていました。団扇の柄が長い形で、送風の道具として使われつつ、権力者の権威を表すもの(威儀具)として、また古墳祭祀における威儀行列の道具として用いられていました。

 

【飛鳥〜平安時代】

大型のものを供に持たせたりするなど、威儀具として、貴族、役人、僧侶などの上流階級の人々に広く使われるようになりました。素材は絹、または蒲葵(びろう)や芭蕉の植物繊維、雉(きじ)や鵲(かささぎ)の羽などで、文様があしらわれるなど、見た目にも煌びやかなものが作られました。一部の庶民の間では、軽い網代網の方扇(ほうせん・四角形の団扇)というものが使われました。

 

【鎌倉・室町時代】

竹、蒲葵、芭蕉などを素材とした現在の団扇の原型が登場したのは、室町時代末。武家の間では、漆塗りの網代団扇や、板や鉄板などで頑丈に作られた軍配団扇(軍配)が使用されました。これらは、戦の際の指揮や、軍の象徴、家紋など示したり、矢などを防ぐ防具としての機能もありました。

 

軍配を持つ武将(狩野元俊)public domain

 

【江戸時代】  

江戸時代、扇いで涼をとる他、炊事や装いの小道具として、庶民の生活に欠かせないものとなっていきます。また、木版技術が向上し、団扇絵の大量生産が可能になったため、庶民も絵や図柄の入った団扇を持つようになりました。古代からの威儀を示す道具から、扇いだり、楽しんだりするための道具となった時代でした。また、唐箕(とうみ)が普及する前は、脱穀後に選別する籾(もみ)を箕(み)に入れて掲げ、団扇で風を起こして籾殻(もみがら)を飛ばし、選別していました。また火消し組には、あおってもらい火を防ぐ消防用具として漆を塗った大団扇が常備されました。

 

【明治時代】

明治時代には「広告団扇」が登場し、今日のような広告媒体として確立しました。廉価版の団扇の裏に名前、表面に商品や商店、寺の紹介文などが入れられ、大量に配布されました。

 

「湖畔」黒田清輝(1897年)

扇子(せんす)触覚、視覚

使いみち

扇いで涼む、口を隠す、贈答品、結界を張る、舞台の小道具、遊び道具、張扇、お盆の代用、扇子腹など。

 

【風を送る】繊細な造りは、上品な微風を送るのに向いています。

 

【口を隠す】  笑うときに歯が見えないよう、口の前で広げます。

 

【贈答】「末広がり」に通じる扇子の形は、昔からおめでたい席での贈答品として用いられてきました。平安時代には、階級が上の貴族が、階級が下の親しい貴族へ下賜していました。江戸時代には、正月に白扇または杉原紙(原料のコウゾに米粉を添加した和紙)1帖と白扇1本を親しい人々に送る習慣がありました。この習慣は現在、能楽や落語で節目の舞台が上演される際、出演者や贔屓に配る「被き扇」として引き継がれています。

 

沈折(しずめおり)の白扇。江戸時代には贈答の品として使われました。

 

 

【結界を張る】お葬式の際、喪主に挨拶するときなど、胸元から畳んだ扇子を出し、膝の前に置いてから礼をすることがあります。これは自他の境目「結界」を張るという意味があります。平安時代から室町時代にかけては、公の場で突然起きた異常事態を確認するとき、扇の骨の間から覗き見るという習慣がありました。これは、外からの穢れを遮る意味があったと言われています。

 

【舞台の小道具】能狂言では、流派ごとに曲目、役柄、シテ方、ワキ方によって、どんな扇子を持つかが細かく決められています。舞台で扇子を開くことのない囃子方、地謡方も定められた扇子を持っています。歌舞伎では劇中の「物語」で、以前に起きた出来事について、扇を使って物語る場面があります。落語では、畳んだ扇子を箸に見立てて蕎麦などを食べるしぐさをしたり、少し開けて傾け、お銚子から酒を注ぐ仕草をしたりします。噺家の隠語で、扇子は「風」と呼ばれています。

 

那須与一が登場する『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」wikipedia

【遊び道具】平安時代から室町時代にかけては、扇子を投げて的を落とす「投扇興(とうせんきょう)」という遊びがあり、その技には『源氏物語』の帖名や百人一首などの名前がつけられていました。江戸時代の座敷遊びでは、水を入れた茶碗に割り箸を渡して扇子で叩き折り、水がこぼれなければ勝ちとする「腕さだめ」や、3本の扇子を組み、円錐状に立ててから倒し、キセルで持ち上げて立て直す「三本扇」という遊びがありました。

 

【張扇】講談師が調子を取るために釈台を叩きます。

 

【お盆の代用】金封を贈るときに、扇子の要を手前にして金封をのせ、相手の膝前に要が向くように回して差し出します。本来はお盆にのせて差し出すが、ここでは代わりに扇子を使うという意味があります。

 

【扇子腹】武士が切腹をするときは短刀で自らの腹を切りますが、これは徐々に次第に形式化していき、短刀に手をかけた時点で介錯をするようになりました。こうして実際に使われなくなった短刀は、扇子で代用されるようになりました。

 

?????簾(すだれ)?????   触覚・視覚

使いみち

日よけ、目隠し、仕切り、虫よけなど。  奈良時代から使われている簾は、竹や葦(あし)などを編んだもので、日よけや部屋を仕切るため、ブラインドのように軒から吊り下げて使われます。立てて使う簾は立て簾と呼ばれ、葦(よし)で編まれた立て簾は葦簀(よしず)と呼ばれます。葦簀は簾よりも大きく、吊るさずに立てかけて使うもの。現代の日本では、海の家などでよく見かけられます。

 

◊◊◊◊◊◊茣蓙(ござ)◊   触覚・視覚・嗅覚

 

使いみち

室内で絨毯のように敷く、布団の上に敷く、丸めて持ち歩き屋外で一時的に敷く。草茎を織って作られた茣蓙は、い草の香りや肌触りで涼を感じることができる敷物です。語源は「貴人の席」を意味する「御座」で、その作りは畳の表とほぼ同じです。昔は原料の草茎に、カヤツリグサ科の植物、シチトウイ、カンエンガヤツリ、フトイなども使われていました。茣蓙は筵(むしろ)の一種で、藁できたものの他に、い草でできたものもあります。庶民に畳が普及する以前は、一般的に使われていました。

 

【上敷き】縁付き・柄無しの茣蓙で、畳の上に敷き、縁を上敷鋲で留めて使います。表と裏の両面を使うことができます。縁の向きが同じ方向に向いているので、部屋を広く感じさせる視覚的な効果がある他、畳替えの頻度を少なくします。

 

【寝ござ】布団の上に敷いて蒸れを防止します。

 

【花ござ】花柄が織り込まれている茣蓙のことです。

 

??????蚊帳(かや)??????  触覚・視覚

 

蚊帳は、夏の夜に戸を開け放し、風を通しながら眠る際に虫除けとして使われていました。蚊帳の生地は麻が多く、網目は約1mm。虫を通さず風をよく通します。麻には吸湿性があるため、気化熱で体感温度を下げるという効果も。現代では、就寝中にエアコンの風を直接受けないように 使われることもあります。

 

 

江戸の夏の風物詩、蚊帳の棒手(ぼて)売り

 

中東から中国の唐を経て、日本に蚊帳が伝来したのは飛鳥時代頃と言われています。奈良時代から日本でも蚊帳が作られ始めました。鎌倉時代までは貴人のみが使うものでしたが、室町時代に庶民への普及が始まり、江戸時代には一般的なものになりました。美声の男性たちが粋な半纏を着、「蚊帳ぁ、蚊帳ぁ」という掛け声をかけながら、二人一組になって町中で売り歩きました。彼らは棒手売りと呼ばれ、江戸に初夏を知らせる風物詩のひとつでした。

 

??????風鈴(ふうりん)??????? 触覚・視覚

 

 

昔の日本人は、湿気が多く暑い夏をやり過ごすため、風鈴の音を聞いて涼しさの風情を感じていました。  風鈴といえばガラス製の江戸風鈴。伝統的な江戸風鈴は、お椀型をした外身に宙吹きのガラス、内側で音を鳴らす舌(ぜつ)に貝、その下で風を受ける短冊に手織りの麻が用いられ、「チリンチリン」という軽く短い音をたてます。また、岩手県の特産品として、南部鉄器で作られた風鈴があります。この南部風鈴は「リーン」と長く澄んだ音を奏でます。また、銅製の風鈴として、富山県の高岡銅器の高岡風鈴、神奈川県の小田原鋳物、砂張(さはり)製の小田原風鈴があります。変わったところでは、兵庫県姫路の明珍火箸を風鈴用に作った「火箸風鈴」があります。吊るされた2組、4本の火箸の中央に舌が下げられ、お互いにぶつかり合って音をたてます。

 

歴史

現在の風鈴の原型は、お寺の堂の軒四方に吊り下げられている青銅製の「風鐸(ふうたく)」と言われています。強い風が吹くと「カランカラン」というやや低く鈍い音をたてます。昔は、強風が悪神や疫病を運んで来ると考えられていたため、邪気除けのために吊り下げられていました。そして風鐸の音が聞こえる範囲は聖域となり、災いが起こらないと信じられていました。  中国の唐(618-907)では、竹林の東西南北に風鐸を吊り下げ、物事の吉兆を占う「占風鐸」という占いがありましたが、これが仏教や建築文化とともに日本に伝来したと考えられています。  疫病や魔を除ける器物として用いられてきた風鐸ですが、時代が下るにつれて、気温や湿度が上がり病が広まりやすい夏の魔除け道具となり、さらに暑気払いの道具として使われるようになりました。

 

風鈴にまつわる日本の行事

川崎大師風鈴市…神奈川県・川崎大師の7月の行事。毎年、47都道府県、約900種類の風鈴が販売されます。

 

浅草寺ほおずき市…東京都・浅草寺の7月の行事。たくさんの風鈴が販売されます。

 

岩手県奥州市・水沢駅…毎年6月から8月、ホームにたくさんの南部風鈴を吊るします。これは「日本の音風景100選」に選ばれています。

 

群馬県前橋市・上毛電車…毎年6月から8月、2両1編成の電車に100個の風鈴を吊るした「風鈴電車」が走ります。

 

三重県伊賀市・伊賀鉄道…夏、風鈴列車が伊賀上野-伊賀神戸間を不定期で走ります。

 

?????打ち水(うちみず)?????  触覚・視覚

 

古来、神道的な「場を浄める」という意味のあった打ち水には、夏に涼をとる手段として理にかなった効果もあります。打ち水をすると、気化熱によって地面の熱が大気中に逃げていき、気温が1~2℃下がります。「気化熱」とは、水が気体になるときに周囲から吸収する熱のこと。水の蒸発1gあたり、約0.58kcalの熱が奪われます。その他、埃が舞うのを防ぐ、撒いた水の蒸発で対流を発生させ、湿った微風を吹かせるといった効果があります。打ち水は、涼をとる方法として長きにわたって続いている習慣ですが、江戸時代前期、五代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」が発布された際には「水の中にいるボウフラを殺してしまう」ということで、禁止されていたという説があります。

 

??????行水(ぎょうずい)????? 触覚

 

湯や水をそそいだ盥(たらい)や桶(おけ)浴びながら体を洗う「行水」。風呂桶を満たすほどの湯水を得るのが難しかった昔に、少量の湯水で身体を洗える入浴方法で、夏は涼を取るためのものでありました。盥に下半身を浸け、手桶で肩から水を流したり、盥の水に浸した手拭を絞って体を拭ったりしました。江戸時代まで盥は木製が主流でしたが、明治以降はアルマイトやトタン(メッキされた鉄の薄板)製の金ダライが主流に。夏、垣根で囲われた庭に盥を置き、戸外で行水をするのは江戸、明治、大正の風俗の1つでした行水という名前の由来は仏教用語です。神仏に祈り、神事や仏事を行う際に身を洗い清めること、または手を洗い、口をすすぐことを行水と言いました。

 

浮世絵に描かれた行水 喜多川歌麿 (1801年)

 

麦茶(むぎちゃ) 触覚・視覚

 

大麦の種子を煎じた麦茶は、体温を下げ、血流を改善する効果があります。また、バクテリアの定着を予防したり、血液粘度を低くする作用もあります。カフェインが含まれていないため、夜寝る前や子供の飲み物としても最適。湯で煮出すよりも、水出しの方が雑味が少なくスッキリとした味になります。大麦の収穫時期は初夏で、夏に新鮮で美味しい麦茶を飲む習慣が生まれたのはこのためです。  麦茶の原料となる大麦は、概ね六条大麦が使用されています。六条大麦の国内生産量第1位は福井県で、減反政策による稲作からの転作奨励によって栽培が広まりました。また、1986年(昭和61年)には、全国麦茶工業協同組合によって毎年6月1日が麦茶の日と定められました。

 

歴史

 

平安時代から鎌倉時代にかけて、貴族や武将などの貴人たちは、温かい麦茶である麦湯を飲用していました。江戸時代には屋台の「麦湯売り」が流行しました。天保年間(1831-1845)に刊行された『寛天見聞記』には「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」と記されており、麦湯専門の「麦湯店」があったことが伺えます。明治時代に入っても麦湯店が人気だった一方で、庶民の家庭でも炒り麦を購入し、作って飲む習慣が生まれました。  昭和30年代に冷蔵庫が普及すると、麦湯を冷やして飲む習慣が生まれました。冷やした麦湯が麦茶と呼ばれるようになったのもこの頃で、昭和40年代には「麦茶」という名前が全国に浸透しました。

 

コラム 古代ギリシャの麦茶

古代ギリシャの医聖であるヒポクラテス(紀元前460頃〜370頃)が書いた治療法の処方文献には、発疹した患者に発芽大麦の煎汁を飲ませ、排尿量を増やすという治療法が記されています。この大麦煎湯は、ギリシャ語で「脱穀」を意味するプティサーネー(ptisane)と呼ばれ、原液のままか、稀釈や濾過をしたものが飲まれました。プティサーネーという言葉は、その後、ラテン語で大麦湯や精白した大麦を意味するプティサナ(ptisana)になり、さらにフランス語でハーブティーを意味するティザーヌ(tisane)に変化しました。

 

(日刊サン 2018.09.01)