人間の能力は、どこまで限りなく伸びるのでしょうか。そのことに思いを馳(は)せる出来事が最近ありました。
ひとつは女子マラソン。10月のシカゴマラソンで、ケニアのブリジッド・コスゲイ選手が2時間14分4秒の世界新記録で優勝しました。それまでの記録を1分以上も縮め、16年ぶりの記録更新でした。
その前日の男子マラソンでは、同じケニアの世界記録保持者エリウド・キプチョゲ選手がウィーンの特別レースで人類史上初めて2時間を切る、ぶっちぎりの大記録でゴール。ただ、2時間を切るための「仕掛け」があらかじめ、いろいろと施されており、非公認の記録となりました。公式記録が出るのは時間の問題でしょう。
陸上競技のもうひとつの花形は、男子100メートル走。言わずと知れたジャマイカのウサイン・ボルト選手が2009年にベルリンの世界陸上選手権で打ち立てた9秒58が「不滅の金字塔」といわれます。では、この先、人類はどこまで記録を伸ばせるのか。専門家たちは9秒45あたりが限度ではないか、と予測していますが、さてさて。人類の限界を超える果てなきチャレンジは実に楽しみです。
しかし、少し前に東京・上野の国立科学博物館で開かれた「大哺乳類展2」を訪れて、度肝を抜かれました。
地上最速の動物であるチーターは、100メートルを3秒台で走りきる力があります。ウサイン・ボルト選手など敵ではない。アジアの平原に暮らすウシ科のブラックバックは体高の約3.4倍の4メートルの高さまでハイジャンプができます。ネコ科のユキヒョウはひと跳びで15メートルを跳んだという記録があります。人間の走り幅跳びの世界記録でも9メートルぎりぎりです。
彼らがオリンピックで一堂に集まって争ったらすごいことになるぞ、とついバカなことを夢想してしまいます。
運動能力となると人間に勝ち目はなさそうです。しかし、知力では人間様の優位は揺るがない、と思いたいところですが、実はこれがけっこう微妙。
日本の各地ではいま、近づく冬に向けて鳥やけものたちが準備に大わらわ。ハイイロホシガラスは秋には3万個以上のマツの種子を蓄えるため、冬の間ずっと膨大な数の隠し場所を覚えておかなければならないのですが、春が来ると種子を埋めた場所をピンポイントで正確に探し当てます。そんな芸当、人間にはできっこありませんよね。
カラスやオウムなどは複雑な認知をつかさどる前脳が大きく、ニューロン(神経細胞)の密度も高いそうです。それにしても、彼らは人間の「知力」とは別のモノサシでしか測れない「知恵」を備えているとしか思えません。
ドイツの生物学者にヤーコプ・ユクスキュル(1864~1944)という人がいます。彼は、動物たちはそれぞれに独自の知覚や感覚に従って世界をとらえているとする「環世界」という考えを打ち出しました。たとえばダニには目がないのですが、光や触覚、温度の感覚、動物の皮膚が発する酪酸(らくさん)のにおいを頼りに、標的の動物の上にぽとりと落ちて血を吸う。ダニにとってはそれが世界のすべて。彼らは彼らで、人間とはまた違う宇宙や世界をとらえているのでしょうか。
16世紀のフランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュは、人間が動物に比べて格別に優れている、宇宙を代表する存在とは考えませんでした。アリやハチは人間よりも整然とした社会をつくっているし、大海原を回遊するマグロは天文学や幾何学を心得ているではないか、とさえ言うのです。人間の知や理性の優越、という驕(おご)りをいましめました。「万物の霊長」と自らに名づけて、あやしむことがない人類は、他のイキモノから見ると、まことに思い上がった、鼻持ちならない存在なのかもしれません。
カラスはどこまで賢いか。マンションのゴミ置き場に止まったカラスに、ふざけて新聞を読んで聞かせたことがありました。頭をかしげて、しばらく神妙に聞いていたように見えたのですが、突然、カアカアと鳴いて飛び去りました。「ワカッタ、ワカッタ」と言ったのか、それとも、「バカバカシクテ聞イテオレナイネ」と呆れられたか。
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。
(日刊サン 2019.11.09)