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太平洋沿いの三陸海岸を南北に走る「三陸鉄道リアス線」が全通して半年余りが過ぎた。2011年の東日本大震災の津波で大きな被害を受けた岩手県沿岸部の鉄道は、第三セクターの北リアス線、南リアス線と、その間を走っていたJR山田線を一本につないで、新しい姿で再スタートした。全長163キロ、第三セクターとしては最も長い路線となった。

 

JR各社と首都圏の私鉄などは、消費税引き上げに伴い、10月に値上げを控えている。鉄道離れも懸念されるが、三陸鉄道は日本の鉄道の課題と将来像を考える時、参考にすべき教訓を示している。

 

三陸鉄道は1984年に南北のリアス線として運行を始めた。当時、北リアス線田野畑駅を中心に、「汽車が来たリアスの村」のタイトルで、毎日新聞で10数回の連載を担当した。明治三陸大津波(1896年)以来、鉄道は復興を願う地元の悲願だった。だが国鉄時代には実現せず、津波はその後も押し寄せた。昭和の終わり近くになって、岩手県や地元自治体が資金を出し合い、第三セクターとして、ようやく「汽車が走った」。

 

ところが8年前の津波で線路は寸断され、田野畑駅隣りの島越駅は高さ20メートル近いところにあった駅舎が、警戒の消防団員も含め、津波に呑まれた。津波からしばらくして、東北新幹線の復旧直後に現場を訪れると、駅の入口にあった階段の一部しか残らず、トンネル出口にはぐにゃりと曲った線路が無残な姿をさらしていた。いまは防波堤に守られた立派な駅が再建されたが、周辺にはまだ津波の傷跡が残る。

 

NHK朝の連続ドラマ「あまちゃん」(2013年)は北リアス線久慈駅などを舞台に展開され、その人気で乗客は増えたものの、沿線の人口減などで苦しい経営が続く。うに弁当や炬燵列車などさまざまな工夫を重ね、観光客の呼び込みに懸命だ。海岸の景色が美しいスポットでは、鉄橋上で一時停車して景観を楽しめるサービスも取り入れている。

 

今回、リアス線として一体になった旧JR山田線は、もともと盛岡駅を起点に、北リアス線宮古駅から南リアス線釜石駅の間を結ぶ路線だった。津波で宮古・釜石間が壊滅的な影響を受け、この区間は不通になった。JR東日本は一時期、鉄道による運行を諦め、バス高速運輸システム(BRT)の導入を検討した。これに対して地元自治体が強く反発し、JR側がこの区間の鉄道を復旧したうえ協力金30億円を提供することなどの条件で、三陸鉄道に経営移管された。

 

三陸鉄道は35年前の開業当時、年間の利用者数は268万人で開業から10年間は黒字だったが、17年度は52万人にまで減少した。関係自治体は鉄道施設の修繕・維持費用を負担する財政支援を続け、今日に至っている。

 

津波直後、三陸鉄道では住民の足を確保するため一刻も早い復旧を、と全社員が一丸となって、被災五日後には一部区間で運転を再開した。その努力と実績に対して、大学時代からの友人である北山晴一・立教大学名誉教授が会長を務める社会デザイン学会が2016年、三陸鉄道・望月正彦社長(当時)に大賞を贈って表彰した。この学会は、学生などに呼びかけ、岩手県の被災地訪問プロジェクトを続けて現場を確認、地元と密着した「さんてつ」を高く評価した。

 

日本のローカル鉄道がいかにして生き残るか、35年間のプロセスを振り返ると、いくつかヒントが読み取れる。東日本大震災の際、中東・クウェートから支援の原油が贈られ、その資金を原資に新しい車両が製造された。関東の西武鉄道に勤務していた女性が三陸鉄道に転職、女性二人目の運転手として働く。宮古市出身の宇都宮聖花さん。リアス線が走る姿を見て育ち、「復興の力になりたい」と故郷に帰って来た。

 

こうしたエピソードから、「愛される鉄道」として育ってきたことが、赤字を乗り越えて営業を続ける大きな原動力になっていることが分かる。

 

三陸鉄道以外の第三セクターでは、千葉県・いすみ鉄道が旧国鉄車輛を朱色とクリーム色のツートンカラーに再塗装してイメージ・アップ。このお色直しのために、NPOの呼びかけによるクラウドファンディングで1,000万円を超える資金を集めた(9月の台風15号で一時運休)。 同じ千葉県の銚子電鉄では、赤字を補うために「奇跡のぬれ煎餅」発売など経営努力を重ねた。しかしやはり東日本大震災の影響で経営が悪化し、株式会社だが、千葉県と銚子市から資金援助を受けて、市民の足を確保している。

 

島根県の一畑鉄道は映画「RAILWAYS」で話題になったが、ここも自治体が存続のため資金援助している。モータリゼーションの波にさらされる鉄道の将来が懸念される話も多い。

 

小学生の一時期、石川県小松市から日本鉱業尾小屋鉱山を結ぶ軽便鉄道、尾小屋鉄道で通学した。鉱山の閉山に伴い1977年に廃線となった。10年程前、センチメンタル・ジャーニーで訪れた際には、東大の赤門軽便鉄道保存会が機関車などを動態保存していた。 日本列島各地で懸命に走る「愛される鉄道」の生き残りを見守りたい。

 

 


高尾義彦 (たかお・よしひこ)

1945年、徳島県生まれ。東大文卒。69年毎日新聞入社。社会部在籍が長く、東京本社代表室長、常勤監査役、日本新聞インキ社長など歴任。著書は『陽気なピエロたちー田中角栄幻想の現場検証』『中坊公平の 追いつめる』『中坊公平の 修羅に入る』など。俳句・雑文集『無償の愛をつぶやくⅠ、Ⅱ』を自費出版。


 

 

 

(日刊サン 2019.09.21)