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広島、長崎の被爆、敗戦の8月15日を中心に、日本のメディアが戦争や平和の問題を集中的に伝えるこの時期の報道は、「8月ジャーナリズム」とやや揶揄的に呼ばれることがある。

 

現役記者だった頃、平和・反核運動の取材を担当した。今年7月半ば、その象徴的拠点を訪れる機会があった。神宮球場の前にある日本青年館(新宿区)ホールで、「三代目日本青年館竣工2周年記念コンサート」と題するチェロ四重奏を聴いた。

 

新しくなった青年館は、地上16階、地下2階、ホテル機能などが従来以上に充実し、二代目を知る者には驚くほどイメージが変わった。初代青年館は戦後、GHQ(連合国軍総司令部)に接収された。

 

東京五輪ではプレスセンターが置かれ、さまざまな歴史が刻まれている。なじみ深い二代目は、1970年代から80年代に、原水爆禁止世界大会の準備会議が開かれるなど平和運動の拠点になった。

 

核兵器廃絶の願いは共通していても、政治的立場を反映して、運動の統一は紆余曲折の歴史を持つ。米国のビキニ水爆実験で焼津の漁船、第五福竜丸などが死の灰を浴びた事件を機に、杉並区で原水爆反対の署名運動が巻き起こり、全国に広がった運動を受けて1960年、第1回世界大会が開かれた。

 

その後、ソ連(当時)の核実験をめぐる対立から、運動は63年に分裂した。取材を担当した時期は、77年に再統一された直後の時代だった(統一開催は84年まで)。 世界大会の準備会議で激しく議論を展開した原水協(共産党系)・吉田嘉清、原水禁(社会党系)・関口和両氏や市民代表の地婦連・田中里子さんは、すでに亡くなった。

 

コンサートに招いてくれた㈱ニッセイ(青年館ホールの運営会社)社長、佐々木計三さん(69)は当時、市民団体の一つ、日本青年団協議会を代表して会議に加わっていた。

 

青年館に足繁く通ったのは、1982年の第2回国連軍縮特別総会に向けた反核署名運動が、青年館に置かれた事務局を拠点に全国的に展開された頃だった。その年の春以来、6月の国連総会まで3,000万人署名運動は大きく広がった。

 

集まった署名は国連本部前に山積みにされた。ニューヨークでその現場に立ち会い、唯一の被爆国である日本が果たす役割を実感した。セントラルパークへの100万人デモが印象に残る。

 

しかし、その後の日本の平和・反核の運動は、政界の分裂、米国一辺倒の政府方針、力と力による大国の外交姿勢などにより、署名に込められた願いを実現する方向には進まなかった。

 

日本政府は、国連で2017年に122か国の賛成で採択された核兵器禁止条約でも米国の姿勢に追随し、批判を浴びた。米国の核の傘に依存し「核抑止力」の論理を安全保障政策の基本としてきた日本政府の方針を、条約は真っ向から否定するが、その現実を政府は受け入れようとはしていない。

 

そんな状況の中、日本の被爆者たちが運動に関わった「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が2017年、ノーベル平和賞を受賞した。受賞式では、広島の被爆者、サーロー節子さんが演説し、世界に感銘を与えた。

 

ICANの事務局長、ベアトリス・フィンさんは18年1月に来日し、広島、長崎を訪れた後、東京の日本記者クラブで記者会見に臨んだ。彼女は安倍首相との面会が実現せず、核兵器禁止条約批准に否定的な日本政府に対して、「被爆地の価値観と政府の政策には大きなギャップがある。日本は国際社会の外れ者になるリスクがある」と厳しいコメントを述べた。会見場でその言葉を聞き、恥ずかしい思いをした。 言うまでもなく、世界の反核・平和を求める運動に大きな役割を果たしてきたのは、広島、長崎の被爆者であり、第五福竜丸をはじめとするビキニ核実験の被害者である。

 

日本被爆者団体協議会(被団協)が70年近くにわたって続けて来た活動はノーベル平和賞候補にも挙げられ、いまも証言活動や国連への働きかけが地道に続けられている。 最近、注目しているのは、反核運動取材当時、被団協で仕事をしていた栗原淑江さんらが結成に尽力したNPО「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の活動である。

 

「ふたたび被爆者をつくるな」と2012年に発足した。 広島、長崎の犠牲者は44万人を超え、被爆者健康手帳所持者は最大時で37万人余だったが、胎内被爆者も70歳を超えて、体験を語り継げる人が少なくなっている。

 

発起人で17年に亡くなった広島被爆の医師、肥田舜太郎さんの遺族から資料を譲り受けるなど記憶が刻まれた資料を保存、公開し、昭和女子大など若い層の人達とも交流の場を設ける。6億円を目標に継承センター設立募金も呼びかけている。

 

広島、長崎の夏はことのほか暑い。米ロの中距離核戦力(INF)全廃条約が8月2日に失効したが、今年も原水禁世界大会は統一されることなく、別々に開かれた。それでも、被爆者たちは日本政府や世界に向かって声を上げ続ける。

 

「8月ジャーナリズム」が今後も健在であることを願ってやまない。

 

 


高尾義彦 (たかお・よしひこ)

1945年、徳島県生まれ。東大文卒。69年毎日新聞入社。社会部在籍が長く、東京本社代表室長、常勤監査役、日本新聞インキ社長など歴任。著書は『陽気なピエロたちー田中角栄幻想の現場検証』『中坊公平の 追いつめる』『中坊公平の 修羅に入る』など。俳句・雑文集『無償の愛をつぶやくⅠ、Ⅱ』を自費出版。


 

 

 

(日刊サン 2019.08.10)