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日刊サンコミュニティニュース 在ホノルル日本国総領事館協賛 主婦ソサエティオブハワイ「文化の催し」開催

Bynikkansan

10月 18, 2018

在ホノルル日本国総領事公邸で、9月25日、主婦ソサエティオブハワイが主催する秋恒例のイベント「文化の催し」が開催された。昨年の文化の催しでは、元年者に関する勉強会の第1弾として、ハワイ大学教授のデニス・オガワ博士を迎え、2018年にハワイ日系移民史150周年を迎えることを記念した講演会が行われた。第2弾は、今年3月に主婦ソサエティ・オブ・ハワイ総会で行われた「二世ベテランズ・レガシー」による講演で、パネルなどを用いながら、戦争中や戦後における日系人の生活や歴史が紹介された。

 

今回行われた文化の催しでは、一連の勉強会の締めくくりとして「元年者、そしてその後」と題した講演会が開催された。ハワイを代表する日系人として、前ハワイ大学学長のフジオ・マツダ博士、主婦ソサエティのメンバーでもあるバーニース・ヒライ博士とリリアン・ヤジマ氏の3人が講演を行った。 会場に隣接するダイニングルームには、ロイヤルハワイアンホテルから提供された書籍、絵画、新聞記事、時系列で歴史をたどる食器、家庭道具、戦後活躍した人々の写真など、ハワイの過去150年の変遷が一望できる資料が展示された。公邸の玄関や床の間には、ハワイ大学ラボラトリースクール講師のジーン・サキハラ氏が手掛けた帯をモチーフとしたアート作品や、主婦ソサエティのメンバーが栽培した秋の草花のいけばなが展示され、日本の秋の風情を漂わせていた。 主婦ソサエティオブハワイ会長の有川啓子氏は、催しの冒頭で次のように挨拶した。「日系人としてハワイに多大な貢献をしてきたお3方の講演を聞くことで、我々日系人や日本人が平等かつ平和な生活をハワイで営めることは、1世・2世の方々の苦労と努力があったからということ、その努力を私たちが次世代に語り継ぎ、引き継いでいくべきことを再認識する貴重な機会になると思います」 続いて、総領事夫人の伊藤美砂子氏、ハワイ州知事夫人のドーン・イゲ氏が挨拶をし、メインスピーカーとして招かれたフジオ・マツダ博士が紹介された。マツダ博士の講演は、子息のベイリー氏が代理で原稿を読み、それを有川会長が日本語に訳すという形で行われた。講演の中で博士は、自身の生い立ちを絡めながら、1800年代後半から現在に至るまでのハワイの歴史を辿った。

 

 

 

 

 

ハワイはいち早く民族の壁を壊すことを成し遂げた

 

 

1881年、時のカラカウア王が日本に明治天皇を訪ねた際、日本からハワイへ移民を送る「官役移民」条約を締結し、その後4年間で950人の日本人がハワイに到着した。彼ら日系一世のほとんどはハワイ州で一生を送り、今日の日系社会の基盤を作った。 日系2世のマツダ博士は、日系人の住むカカアコで生まれ育ち、家庭では日本語を話しながら育った。通った小学校では、生徒のほとんどが日本人で、他に少数の中国人、ハワイアン、ポルトガル人、フィリピン人がいた。そのような環境の中で、今日までハワイで使用されている、英語、ハワイ語、他の国の単語が混在した「ピジョン英語」が形成されていった。 1941年12月7日の真珠湾攻撃以降は多くの学校が閉鎖されたが、再開後も軍に掌握されるなど混乱の最中に置かれた。1942年、ハワイ大学に在学中だったマツダ博士は、第442連隊戦闘団に志願。日系アメリカ人で構成された第442連隊戦闘団、第100歩兵大隊は北アフリカでの戦闘に参加し、同時期に参加した隊の中で最も多くの死傷者を出した。 マツダ博士は「戦中の日系人の貢献は決して忘れてはならないことであり、彼らが戦後に成し遂げたことは、それ以上に語り継がれなくてはならない大切なことだ」と強調した。 戦後のハワイは、少数の裕福層と大半の貧しい移民の家族で構成されていた。大学費用などを援助する「復員軍人援護法」で日系の復員軍人も本土の大学などへ行くことができたが、卒業してハワイに戻っても、多くは労働者階級に止まらざるを得ない状況だった。 しかし、1962年、ハワイ州知事に就任したジョン・A・バーンズ氏が新しい民主主義政策を開始。以降、ハワイは徐々に全ての民族が平等な権利を持てる社会へと変化していった。マツダ博士は、10年にわたってバーンズ前知事の元で仕事をしたが「『長い目で世の中を見ること、定義にとらわれないこと、何より誠実であること。そして正しいと信じたことに勇気を持って挑むこと」という、学問を超えた世界を学んだ」と語った。

 

 

日本語を学ぶことの大切さ

 

 

日系団体の代表などを務めたバーニース・ヒライ博士は、講演の中で、戦争中に日本語を学ぼうと思った経緯や動機などを語った。 戦争中、ヒライ博士の家の物品などは全て当局に没収されてしまったが、その中に、1930年頃、三木武夫元総理大臣(在任1974〜1976年)がハワイに遊学した際、博士の実家で三木氏を世話をしたことに対する礼状が混ざっていた。礼状は当局に見つかり、父親がFBIに逮捕されかけたものの、礼状の内容を日本語に訳す際「を」や「と」など、助詞の訳し方によって意味が全く変わったことで、逮捕されず事無きを得た。このことから、ヒライ博士は、人の一生をも変えてしまう言語の大切さを実感し、日本語を勉強するようになったという。

 

できることはすぐに実行を

 

 

また、新しい民主主義政策による社会の変化に比例して異民族間の交流や婚姻が盛んになったことに言及し、「ハワイはアメリカ本土の他の州に比べ、民族間の壁を壊すということをいち早く成し遂げている」と述べた。そして自身の周囲にある異民族間の交流や婚姻の例を挙げ、アップル社の故スティーブ・ジョブスが遺した「アップル社が作ったどの機械も、アップル社が稼いだ全ての金、それで得た自分の富など、何の価値もない。自分にとって一番大切なのは家族だ」という言葉で講演を締めくくった。

 

 

また、長年教師を勤め、主婦ソサエティなど日系団体の代表として活動を続けるリリアン・ヤジマ氏は、講演で、有川会長と共にまとめた資料や写真をスライドを用いながら、日本人女性としてハワイに貢献した母のアリス・T・ノダ氏について語った。アリス氏は1894年福岡生まれ。5歳でハワイに渡り、プランテーション経営を手始めに、日系女性では初の歯科衛生士となり、同じく初の運転免許保持者ともなった。 ロサンゼルスとニューヨークで美容について学んだ後、ハワイで新しいパーマの技術を取り入れた美容院を開店。4店舗まで増やしたのち、日本にも進出した。ホノルル美容師会会長を勤め、美容師の専門試験制度を設けるなど、美容師のプロフェッショナルな地位を高めることにも貢献。その後、日本人女性として初めてガール・スカウトのボードに認められ、ホスピタル・ソサエティーで賞を獲得。さらに、日本人のためのガール・スカウトの創設、ハワイ・コングレス・PTAオフィサーへの就任などを通した社会への功績が認められ、赤十字、アロハ・ユナイテッド・ウェイなどから表彰を受けた。 また、日本とハワイの架け橋として皇族の接待、通訳、義援活動などでも活躍。ジャパニーズ・ウーマン・ソサエティ(JWS)の会長としてファンドレーズにも力を入れ、ケアホームへの寄付や広島原爆被害者の整形手術の援助なども手がけた。1964年7月25日に他界。JWSの10周年記念で表彰される10日前のことだった。 アリス氏は「人生は1度しかない。他人に対してできることに出会ったら、迷わず、逃げず、2度とない機会と思い、すぐに実行すること」というウィリアム・ペン(17世紀にフィラデルフィア市を建設した人物)の言葉を家訓として遺した。アリス氏の遺志は娘のリリアン氏へと受け継がれ、現在、孫やひ孫たちへも受け継がれている。

 

▲日本から来た、ロイヤルハワイアンホテルの研修生

 

講演の後、出席者全員が参加した「四季の歌」の合唱で午前の部が締めくくられ、「夏のや」の秋の懐石弁当が振る舞われた。午後の部では、日本から来布し滞在中のホテル研修生たちが、ロイヤルハワイアンホテルが提供した展示物について語る場などが設けられた。最後に伊藤康一総領事が講演を行い、スライドを交えながら日本とアメリカの関係におけるハワイの役割などについて語った。その後、毎年恒例となっている表玄関での記念撮影が行われ、今年の文化の催しは幕を閉じた。

 

(日刊サン 2018.10.18)

 

(取材・文 佐藤 友紀)