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オリンピック柔道、金メダル3連覇、野村忠宏さん特別インタビュー

「小さかった、弱かった、でも絶対にあきらめなかった」

 

 

 

アトランタ、シドニー、アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成した野村忠宏さん。1996年のアトランタから2004年のアテネまで、3つのオリンピックの開催年月には8年間もの開きがある。その間、肉体も精神も現役としてのピークを維持し、さらなる高みを目指して技を磨くということがどれだけ驚異的なことか。しかも3大会すべて金メダルという前人未到の偉業を成し遂げるということ。身長164cmの小さな巨人は、多彩な技やキレのあるスピードを得意としてきたことからから天才肌だと称されてきた。

しかし目の前に佇む野村忠宏さんは、「小さくて弱くて負け続けてきました。体格も才能も恵まれてはいなかったけれど、でもあきらめなかった。自分を好きでいたかったから、あきらめないで頑張ってきただけです」 自分を信じて裏切らず、ひたすらに鍛錬を重ねてきた日々。 日系移民150年の祝賀行事に参列のため、ハワイを訪れた野村さん。カポレイにある、ハワイ東海インターナショナルカレッジで開かれた柔道講習会では3日間、ローカルの少年少女を指導。連日200名以上の参加者が集まり、大盛況だった。「あきらめない自分」について、日刊サンの取材に応じてくれた。

(取材・文 奥山夏実)

 

祖父も父も兄も柔道家、僕には期待ゼロ、 「柔道しなくてもいい」と言われました

野村さんの祖父は、地元奈良で80余年も続く「豊徳館野村道場」を主宰。父はロサンゼルスオリンピック金メダリストの細川伸二ら名選手を育てた元、天理高校の柔道部監督。叔父はミュンヘンオリンピック金メダリストの野村豊和、そして兄も祖父の道場の指導者という柔道一家に、1974 年生まれる。実家の横に道場があったので、3歳で柔道を始めました。といっても柔道一筋ではなくて、小学校に入るくらいまでは水泳、サッカー、野球などいろんなスポーツをしていました。体が小さかったので、どのスポーツもそこそこできるくらいで、柔道も習ってはいたものの、誰にも期待されなかった。勉強もそこそこで、ほんと、取り柄のない少年時代でした1歳上の兄は体もしっかりしていて柔道も強くて、オヤジも「人の3倍努力しろ」なんてゲキを飛ばして指導していましたが、僕には「無理して柔道しなくてもいいんだぞ」って、もう全く目もかけてくれなかった。悔しかったですね。ただ、いじけはしなかった。オヤジ見てろよ、いつかすごい選手になってみせるからなって、反骨精神ですね、悔しさをバネにしてきました。

 

体重30kg、小柄すぎて、 中学時代は女子にも負けていました

でも体格が、中学生で身長140cm、体重32kgですもん。クラスで一番小さかった。初めて市民体育大会に出た時も、女子に負けていましたから。柔道というのは相手が大柄であっても、相手の力を上手に利用して相手を負かすという競技なのですが、それにしても僕は小柄すぎた。負けて負けて、親にも周囲にも期待されなくて悔しかったけど、柔道は好きでした。いつか背負い投げで相手を負かしたいと、カッコいい自分を思い描いていた。柔道の代表的な技は背負い投げです。逆に背の高い者は、大外刈りや内股などの技を磨きます。僕は中学生の時はすでに、柔道をずっと続けていく、絶対に強くなるという志を持っていました。背負い投げのイメージトレーニングは欠かしませんでしたね(笑)。今日参加してくれたハワイの子ども柔道家たちにも、背負い投げや払い腰、大外刈りや内股などの技をデモンストレーションします。一緒に来た講道館の上村春樹館長や指導員の先生方は日本を代表する柔道家です。凄いスピードと迫力の技を、本物の柔道をリアルに見れる良い機会です。こういう体験が若手の育成にはとても大切なんです。講道館(こうどうかん)は、柔道家であり、教育家でもある嘉納治五郎が1882年に興した柔道の総本山で、現在は公益財団法人。第5代館長の上村春樹さんは、モントリオールオリンピック、柔道重量級の金メダリストでもある。今回、この講習会を主催したのは、ハワイ柔道協会の代表で、ソウルオリンピック銀メダリストのケヴィン・アサノ氏。ハワイの子ども達に一流の指導を体験させたかったという。 世界でも柔道は人気で、フランスやブラジルでは日本の柔道人口を上回るほど普及している。ハワイにはケヴィン・アサノ氏の道場を始め、全米でもトップクラスの道場があり子どもから大人までとても盛ん。講道館からも毎年、師範がハワイに来て、オアフだけでなくビグアイランドやマウイ島でも講習会を開いている。

 

今だけ勝つ柔道はするな、オヤジは柔道の正道を教えてくれた

野村さんは柔道の名門、天理高校に進んだ。高校生の時に1回だけ、父に言われたことがあります。「身体が小さいから、まともに組んでも投げられる。お前は反射神経が良いから、スピードで引っ掻き回そうとする。確かに相手を撹乱すれば勝てる試合もあるだろう。でも、今だけ勝てる試合はするな。今は勝てなくてもちゃんと組んだ柔道をしろ。時間はかかってもいい。いつか必ず勝てるようになるから」。というアドバイスです。僕は父の言葉を信じて、組む柔道を続けました。体の大きい人なら、道着の襟のどのへんを掴んだらいいのか、手の小指使いは、引く時のヒジの使い方は……生身の相手と組んで、組んで、組んで、小よく大を制す、その技の感触を、僕の身体に覚え込ませていきました。 野村さんは高校3年生の時、初めて奈良県大会で優勝。晴れの全国インターハイに出場したが1回戦で敗退。そして1993年、天理大学の武道学コースに進学。

 

稽古は試合のように、 試合は稽古のように

ある時、大学の柔道の先生から「ほんまに強くなりたいなら、練習の取り組み方を変えろ」って言われたんです。僕の柔道の恩師、細川伸二先生です。それまでの僕の柔道の練習は、試合形式の乱取りという練習を6分×12本行っていました。 乱取りとは、お互いが技を掛け合う自由練習のこと。乱取りは、柔道の練習の中心となるもので、投げや抑えを駆使して相手を攻撃したり、掛けられた技を防いだりする、タフで実践的な練習方法だ6分×12本はものすごく厳しくて、僕は「あと何本、あと何分」と、こなすことばかり考えてやっていた。そんな、消化するだけの取り組みではダメだ、それでは練習が無駄になるという指摘でした。細川先生は「12本こなせなかったらそれでもいいから、1本1本気持ちを集中させて、全力を出し切ってしまえ」と言われました。指摘されてハッと目がさめるようでした。真剣勝負、負けたら終わりの試合のように練習せんと上にはいけないと気がつきました。やりましたよ、真剣勝負の稽古を。本気でやるのは本気でキツくてツラかった(笑)。柔道は論理的に構築された格闘技なので、稽古を積むことで身体の柔軟性、筋力、敏捷性、バランス感覚が自然に身についていく。そして稽古は集中力や忍耐力、謙虚さをも養ってくれる。事実、野村さんは素直で謙虚な心で、父や恩師のアドバイスに従った。すぐ成果の出る近道ではない、一番ツラい遠回りな道をあえて選んで、あきらめずに一歩ずつ前に進んでいった。そして心身ともにたくましく成長し、柔よく剛を制す実力をつけ、才能を開花させた。

 

自分で限界を決めてはダメ、 金メダルは限界の先にある

でも本当にツラくて細川先生に「もう限界です」って言ったことあるんですよ。そうしたら「お前、そんなもんか」って言われちゃって。僕としては、「よくやったから一休みしろ」って、少しは労ってもらえると予想してたんです。甘かったですね(笑)。それでナニクソって、負けん気に火がついて。自分で限界を決めたらダメです。限界でも、かすかに残っているエネルギーを絞りきる。金メダルは限界の先にあります。僕の柔道人生で大きな転機になったのは、大学2年生の全日本柔道体重別選手権大会優勝でした。決勝では当時世界チャンピオンだった園田隆二先輩に一本勝ちして、自分自身でも鮮烈なデビューだったと思います。その後のアトランタ五輪の柔道代表選出にもつながった非常に思い出深い試合です。 1996年、野村さんは大学4年でアトランタオリンピック、男子柔道60kg以下級に出場。当時は女子に田村亮子選手がいて、男子では小川直也選手、古賀稔彦選手などそうそうたるメンバーが揃っていて。僕だけ周囲も驚く大抜擢でした。無名でしたからね、アトランタへ出発する際、空港に集まった取材メディアのカメラに突き飛ばされました(笑)。僕が代表の一員だって知らないのかって、口には出さなかったけど、おかげでメラメラ燃えました。

 

アトランタ金メダル、 表彰台でメダルを噛んだ!

アトランタでは、オリンピックに出られるのは今回が最初で最後、2回目はないと思ってた。だから最後まで攻め抜く、絶対にあきらめないという強い気持ちで試合に臨みました。その成果が出たのが3回戦のニコライ・オジェギン(ロシア)戦。彼は前年度世界柔道選手権の王者で、前評判では僕が絶対的に不利。事実、組み合って技を掛けられた瞬間に「こいつ、やばいな」と思いましたね(笑)。有効ポイントを2つ取られ、残り時間はあとわずか。それまでの自分なら、きっとあきめてしまっていたと思いますが、最後まであきめずがむしゃらに攻めるんだ、限界を超えるんだという強い気持ちがあったから、ラスト15秒の逆転につなげることができたのだと思います。野村選手はその後波にも乗って、金メダル獲得。表彰台でメダルを噛むポーズがメディアで大々的に報道され、一躍有名になった。よく、表彰式でメダルを噛むパフォーマンスは野村が始めたと言われますが、実はあれ、自分が最初じゃないんですよ。自分自身が初めて見たのは、アトランタ男子柔道で初めて金メダルを獲得した中村兼三先輩でした。

 

華麗な技で金メダルのシドニー、 アテネで前人未到の3連覇

4年後のシドニーオリンピックでは、「全試合、違う技で勝って金メダル」と宣言して、その通りに実行することができました。さらに大会前に「金メダルを獲って競技生活を退く」とも宣言していたので、自分自身が満足できる内容と結果を得られたことで、もう十分にやったという気持ちが強くありました。競技者としての4年後をめざすというのは本当に、本当に長くてキツいんです。シドニーの後は、満足感と寂しさを抱えたまま、柔道と距離を取りました。サンフランシスコに語学留学したんです。2年間、ほとんど柔道をすることもありませんでした。柔道から離れて、日本からも離れて、自分としっかり向き合うことができたおかげで、「今しかできないこと、自分にしかできないことをするべきだ」という思いに到達できた。当時、軽量級の2連覇は僕しか成し遂げていなかったわけで、3連覇をめざすことの意味についても考えました。指導者になるための準備をする選択肢もありましたが…。もう一度、自分自身が燃えるような熱い日々にチャレンジしよう、野村忠宏にしかできない今を生きようと決心し、アテネをめざすことにしたんです。現役続行を決断して、アテネで3連覇を達成することを目標に定めてからは、無我夢中の2年間でした。年齢は30歳目前、疲労のたまり具合や回復が以前とはぜんぜん違うし、怪我も増えました。2年のブランクを埋めるのは並大抵ではなかった。当然、「3連覇をめざすなど、カッコいいこと言いながら勝てないじゃないか」という評価もされた。実際、必死でがんばっても試合で勝てなくて。追い詰められました。崖っぷちの限界体験でしたね。ところがアテネオリンピックでの本番は、アトランタやシドニーよりずっと危なげない戦いができて、金メダルを獲れた。自分で言うのも変ですが圧勝でした。前人未到の3連覇達成は、記録も充実感も大きかったです。

 

右膝靱帯断裂のまま北京をめざすが落選。 第一子誕生後、学生に戻り医学博士へ

 

アテネで崖っぷちの限界を体験してから、カッコいい現役引退をめざすのではなく、這いつくばってボロボロの体になっても挑戦者であり続けたいと考えるようになりました。野村さんは2008年の北京オリンピックをめざして現役の競技者として柔道を続けていたが、右ヒザの靱帯を断裂。手術をすると北京オリンピックに間に合わないので、断裂したまま練習し、断裂したまま試合に出ていました。年齢やケガで体力は衰えていても、経験で培ってきた柔道の技術を磨くことはできます。そういうチャレンジャーもありだと思い、努力を続けました。若い選手を投げる瞬間はやはり気持ちが良かった(笑)。  2008年の春に行われた全日本選抜柔道体重別選手権の準決勝で敗れ、北京の代表候補からは落選してしまいました。代表落ちしたのでヒザの手術を受けることにしました。もう満身創痍でね、右ヒザは1回、左ヒザは2回、肩も1回手術を受けています。足の指が折れるなんて日常茶飯ですから、ほら。リハビリを続けながら2009年の春、弘前大学の大学院医学研究課博士号過程に入学し、スポーツ医学を勉強しました。主にコンディショニングに関してで、免疫力や睡眠をうまく利用した疲労回復に関してなどです。勉強は自分にもフィードバックできますから有益でした。 リハビリを続けながら2009年の春、弘前大学の大学院医学研究課博士号過程に入学し、スポーツ医学を勉強しました。主にコンディショニングに関してで、免疫力や睡眠をうまく利用した疲労回復に関してなどです。勉強は自分にもフィードバックできますから有益でした。

 

夢を信じてあきらめない力、 チャレンジャーであり続けるということ

 

ロンドンオリンピックを再びめざすが、叶うことはなかった。しかし野村さんは現役を続け、2013年スイスオープンで優勝、2013年実業選手権では3位。選手生命の長い柔道家としても活躍したことになる。2015年の引退記者会見では、「長い人生を振り返った時に、弱かった時代の方が長かった。もしかしたら才能はあったかもしれないが、開花するまでの長い時間をあきらめなかった信じる力や、想いを伴った努力は本物だと思う。信じられたからこそ、今がある。柔道こそが自分の人生」と述べた。競技人生は山あり谷あり。でもあきらめずに自分を信じて稽古をしてきたからチャンピオンになれた。あきらめずに自分を信じて稽古をしても、北京オリンピックやロンドンオリンピックには落選した。自分の財産として残るのは、結果じゃなくて、あきらめずに努力を仕切ったという達成感です。そのことをハワイの子ども柔道家の皆さんに知ってほしい、感じてほしいです。どんな夢や目標でも、あきらめずにやり続けなければ実現させることはできないのですから。一生、チャレンジャーであり続けたいです。

 

 

野村忠宏さん

柔道家。1974年奈良県生まれ。祖父は柔道場「豊徳館」館長、父は天理高校柔道部元監督という柔道一家に育つ。 アトランタ、シドニー、アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック三連覇を達成する。 2015年8月、全日本実業柔道個人選手権大会を最後に、40歳で現役を引退。現在は国内外にて重農の普及活動、テレビのコメンテーターやキャスターとしても活躍。著書に「戦う理由」。

 

(日刊サン 2018.09.01)