彼らは海の親善大使として知られている。サーフィンを教え、カヌーやカタマランで観光客を海へ連れ出し、海とハワイ文化の恩恵を伝えている。
しかし、ワイキキのビーチボーイたちはそれ以上の存在である。彼らはサーフィンイノベーションの最先端をいき、オリンピックで国の代表となり、思い出に残るアイランドミュージックを生み出し、カヌー航海でハワイアンルネッサンスを発展させ、サンゴ礁の世話役として務め続けているのだ。
「ビーチボーイたちは十分に認知されていません」とTSレストランのオアフ担当マネージャーであるディラン・チン氏は言う。
日曜日、チン氏と他の支援者たちが、第14回デュークス・オーシャンフェスをワイキキで開催した。このオーシャンスポーツのイベントは、最も有名なビーチボーイ、デュークス・カハナモクの銅像のそばで開かれた。デューク・カハナモクは、1912年から1924年の間水泳で5つのオリンピックメダルを獲得。デュークの兄弟であるサミュエルも1924年の大会で銅メダルを獲得している。
デュークの銅像は、1920年代から40年代にかけて航海の旅をしていたセレブリティーたちの間で有名なリゾートホテル、ロイヤルハワイアンホテルから臨める。ビーチボーイたちはボブ・ホープやビン・クロスビー、シャーリー・テンプルなどの有名人たちとカヌーを楽しんだ。訪れた人たちにサーフィンを紹介し、デュークがサーフィンというスポーツを国際的に有名にし、ニュージランドはじめ他の場所にも広まっていった。
1939年からワイキキビーチでは、少なくても10回は砂の補充プロジェクトが実施されていると、土地・自然資源省は発表している。30万立方ヤードの砂を補充する作業が、過去70年間で行われているが、ビーチの侵食問題は依然続いている。
その補充プロジェクトを監督元ビーチボーイで、有名なサーファージョージ・ダウニング氏は、他所から新しい砂を持ってくるよりも、サンゴ礁エリアから砂を取り除き、その砂を侵食箇所に充てるという方法を支持している。ダウニング氏は、沖に砂を足し続けると、結果としてサンゴたちを窒息させてしまうことになり、サーフィンエリアの自然に変化をもたらすと主張する。
1950年代に、ダウニング氏がサーフボードのデザインを改良し、スケグ(フィン)を加えたことにより、サーファーたちは、20フィート以上の高さの大波に乗れるようになった。
俊足のビーチボーイ ラビット・ケカイ氏は、創造的な技をサーフボードの上で行った最初のサーファーとして、1960年代に有名になった。
クイ・リー氏は、ワイキキのエンターテイナードン・ホー氏の名曲”I Remember You”や”Days of My Youth”の作曲をした。もう一人のビーチボーイでミュージシャンでもあるブギー・カラマ氏は、二重船体のカヌーに敬意を表した”Hokule’a, Star of Gladness”の作曲をし、クルーたちに伝統的ハワイアンの航海方法を伝え、ポリネシア航法のウェイファインディングを復活させる手助けをした。
ケカイ氏のサーフィンレッスンを手伝ったケアラナ夫婦は、ホクレア号が1976年にハワイ・タヒチ間を最初に歴史的航海をした時のクルーメンバーである。
そして、エドワード “ブラックアウト”ウエイリーといったビーチボーイズたちは、海についての知識を伝承していった。
ホクレアのクルーメンバーであったレイトン・ツイ氏は、ウエイリー氏からカタマランの乗り方のレッスンを受けたという。
ウエイリー氏の甥であり、元ファーストハワイアンバンクの副代表であったアンソニー・ゲレロ氏は、今年初めに86歳で亡くなったウエイリー氏から初めて乗ったサーフボードをもらったと言う。
「伯父は、私に釣りやサーフィンを教えてくれました。伯父は素晴らしいギフトを私にくれたのです」と語った。