毎年6月11日はハワイ州の祝日「カメハメハデー」。ハワイ州が独自に定める、1年に3日の祝日のうちのひとつです。今回はハワイを語る上で外せないカメハメハ大王について、シンプルにヒストリーをまとめました。今さら聞けない! という人も、この機会に基本の“き” を押さえておきましょう!
カメハメハが大王になるまでのハワイ
カメハメハ大王が生まれたのは1758年頃。ハワイ島北部カパアウが生誕の地です。それまでのハワイは、それぞれの島、地域ごとに有力者がいて、その下に社会が構成されていました。
1778年、イギリスの探検家ジェームズ・クック船長率いる一行がハワイの島々を発見します。その時にハワイにつけた名前は「サンドイッチ・アイランド」でした。
北アメリカ大陸とアジアの間に位置するハワイは、貿易船の補給などに絶好の場所で、この時から西洋諸国の人々との接触がはじまりました。それまで外界との交流はほとんどなかったため、これによりハワイは急激な変化を遂げたのでした。
カメハメハ1世の肖像
カメハメハ1世がハワイ王朝樹立へ
ジェームズ・クック船長がハワイ諸島を発見した頃、マウイ島とオアフ島を統一していたのはカヘキリ王。ハワイ島はカラニオプウ王が支配していました。その甥がカメハメハです。
1782年、カラニオプウ王が死去します。ハワイ島は3つに分裂し、そのうちのコナを支配したのがカメハメハでした。カメハメハはハワイにやってきた西欧人から大砲などの近代兵器の使い方などを習得し、そこからメキメキと頭角を現します。
1790年、ハワイの島々を統一するようカフナ(神官)から助言を受けたカメハメハは、それを実現するためにハワイ島北西部のカワイハエに「プウコホラ」を建てました。今ではハワイ最大規模の復元 ヘイアウ(神殿)となっています。
まるで要塞のようなヘイアウ「プウコホラ」。国立公園制度で保護されている観光名所。
1794年、マウイ島やオアフ島を支配していたカヘキリ王が亡くなると、カメハメハは一気にマウイ島めがけて攻めあがります。1795年2月、マウイ、モロカイ島を手中に収め、その後オアフ島に上陸。ヌウアヌ・パリで勝利。「ハワイ王朝樹立」を宣言しました。
この時まだ勢力下になかったのはカウアイ島。1796年、カメハメハはカウアイのカウムアリイ王に対して、15,000人の兵力を率いて攻撃を仕掛けます。しかし大暴風雨に遭って諦めます。1803年、再びカウアイ島に向かうものの、同時期にペストが大流行し、この時も侵攻を断念せざるを得ませんでした。
不思議な力に守られたカウアイ島でしたが、その後カウムアリイ王は自らの判断でハワイ王国の傘下に入りました。これにより、カメハメハは1810年にハワイの島々の統一を成し遂げたのでした。
大王によるハワイ王朝
カメハメハは語学も堪能で外交感覚に優れ、イギリスやアメリカとの友好関係を築き上げることにより、ハワイの独立を守りました。また、身長が約2mあったカメハメハは、武術にも知力にも富んでいたため、諸外国は干渉を控えたとも言われています。さらに、中国に対して白檀を輸出するなど、王朝の経済も安定へと導きました。
ハワイ諸島を初めて統一してハワイ王国を建国し、初代国王となったカメハメハ大王は1819年5月、ハワイ島カイルアコナで家族らが見守る中、息を引き取りました。
カメハメハ1世が余生を過ごしたとされる「アフエナ・ヘイアウ」。現在はキング・カメハメハズ・コナ・ビーチ・ホテルの敷地内にある。
変化が激しかったカメハメハ2世の王国
カメハメハ大王没後、長男のリホリホがカメハメハ2世として王位に就きました。
この時代は大きな変化が訪れます。白檀の乱獲により木が枯渇し、王国の経済の主軸は捕鯨へと移っていきます。また、それまでハワイ社会規範であった「カプ制度」が廃止され、男女が共に食事をしても処罰を受けないなど、ハワイの人の生活が大きく変わりました。
さらに、1820年にはアメリカからの宣教師がハワイ島カワイハエ、オアフ島ホノルルに上陸します。彼らによるキリスト教の布教で、ハワイが大きく西欧化することになったのでした。
カメハメハ2世は1824年、たった5年間の在位で病に倒れ、この世を去りました。
多くの功績を残したカメハメハ3世
カメハメハ3世は、2世の弟カウイケアオウリ。つまり、カメハメハ1世の息子でわずか10歳にして1825年に即位しました。この後カメハメハ3世はハワイにとって大きな功績を残したのです。
この頃の経済は、北太平洋の真ん中という好条件を生かした捕鯨によって安定していました。
3世は、1840年に憲法を公布し、ハワイで立憲君主制度が成立します。奴隷制の禁止などが盛り込まれ、ハワイアンの人々の選挙権も一部認められました。こうした憲法制定により、イギリスやアメリカ、フランスはハワイ王国を独立国家として承認するようになったのでした。
教育についても変化が起きます。1841年、キリスト教会衆派教会系の教育施設としてプナホウ・スクールが開校したこともきっかけとなってハワイの教育水準が高まっていきました。
1845年にはハワイ王国の首都がホノルルへ移されました。
当時、土地はすべて王のものであり、個人で土地を所有するという概念がなかったハワイですが、1848年に、土地を所有し、それを財産とみなす西欧型の考えに基づいたマヘレ法が制定されます。一般の人にも土地所有を認めるという画期的な法律でした。外国人にも土地所有の権利が認められたことから、やがて西欧人は次々と土地を買い取っていったのでした。
こうしてハワイを近代国家としたカメハメハ3世は1854年に41歳の若さで亡くなりました。
人々の健康に注力したカメハメハ4世
1855年、カメハメハ3世の養子で、3世のもとで閣僚として行政経験を積んでいたアレキサンダー・リホリホが4世として王位に就きました。4世は10代の時に教育目的で兄のロットとアメリカやヨーロッパなど多くの国々を巡訪した経験があり、語学も堪能でした。
この頃のハワイ王国は、アメリカからの移民が急増し、政治や経済において圧力を受けるようになっていました。4世はアメリカからの征服を危惧し、イギリスとの関係を強化していきます。
4世の妻は、エマ・ルーク(後のクイーン・エマ)。海外から持ち込まれたハンセン病などの流行が恐れられ、カメハメハ夫婦は基金を募って1859年にクイーンズ・ホスピタルを完成させた他、マウイ島にも医療施設を建設しました。
イオラニ・スクールなど英国国教系のミッションスクールが創設されたのは1863年。イオラニの名前を与えたのはクイーン・エマとされています。
妻のクイーン・エマとともにハワイの人々の健康にも尽くした4世は、愛息アルバート王子を4歳で亡くし、その後自身も体調を崩して1863年にわずか29歳で生涯を終えました。
カメハメハ時代の終焉
カメハメハ4世の死去後、その兄ロット・カプイワがカメハメハ5世として後を継ぎました。5世も4世と同じく、アメリカの動きにに細心の注意を払い、親英路線を保ちました。さらに欧米の支配を免れるために、1864年には王権を強化した新憲法を公布しました。
1871年、5世は今のハワイ州の祝日、6月11日の『カメハメハデー』を制定しました。ハワイを独立王国として築き上げたカメハメハ大王を尊敬していたことが伺えます。
また、1872年にハワイ王朝初の政府用建造物であり、現在ホノルルのカメハメハ大王像の後ろに建つアリイオラニ・ハレの建設を決定しました。
それからまもなくして、1872年に5世は42歳で他界してしまいます。独身であり、王位継承者を指名できずに亡くなったため、次の王位は議会の選挙で選ばれることになりました。
ここでカメハメハ時代が終焉を迎えたのでした。
カラカウア王の妹で、ハワイ王朝の最期の女王、リリウオカラニ。名曲「アロハ・オエ」の作者としても知られる。
〜 元年者がハワイへ到着 〜
一時期は500隻もの捕鯨船が入港していたハワイ。やがて捕鯨は減少し、砂糖生産業が第一産業へと移り変わっていきます。こうした時代背景の中で、ハワイへの日本人の最初の集団移民153人を乗せたサイオト号がホノルルに到着したのはこの頃(1868年)でした。
年表で見るカメハメハ王朝
1758年頃 | カメハメハ大王(1世)がハワイ島北部カパアウで生まれる |
1778年 | キャプテン・クックがハワイ諸島を発見 |
1795年 | カメハメハ大王がヌウアヌパリで勝利し、ハワイ王国成立 |
1805年頃 | 白檀の輸出が本格的に |
1810年 | カウアイ島とニイハウ島もハワイ王国となり、 カメハメハがハワイ統一を成し遂げる |
1819年 | カメハメハ大王がハワイ島カイルアコナで死去。息子のリホリホがカメハメハ2世に即位。捕鯨船がハワイに |
1824年 | カメハメハ2世がロンドンで死去 |
1825年 | 2世の弟がカメハメハ3世に |
1840年 | 3世がハワイ王国の憲法を公布 |
1854年 | カメハメハ3世がホノルルで死去 |
1855年 | 3世の養子アレキサンダー・リホリホがカメハメハ4世に |
1860年頃 | 砂糖産業の輸出が盛んになる |
1863年 | カメハメハ4世がホノルルで死去。4世の兄、ロットがカメハメハ5世に |
1864年 | 5世が新憲法を公布 |
1868年 | 元年者移民がハワイへ |
1871年 | 5世がカメハメハデーを制定 |
1872年 | カメハメハ5世がホノルルで死去 |
5世が王位継承者を指名しないまま死去したことで、時期王位は議会の選挙で選ばれることになり、カメハメハ王朝は終焉を迎える。尚、『ハワイ王国』は1893年の革命により『ハワイ共和国』となり、1898年にハワイ準州としてアメリカ合衆国に併合されて消滅した。
カメハメハ大王像の5つのトリビア
ハワイを代表する観光スポットとしても有名なカメハメハ大王像。これはカメハメハ一世の像で、左手の槍は平和を象徴し、掲げた右手はハワイの繁栄を表しています。
①大王像は全部で6体
ホノルルのイオラニ宮殿の向かいにあるアリイオラニ・ハレ前、大王の生誕地ハワイ島カパアウ、カメハメハ王政最初の政庁所在地であるハワイ島ヒロの3カ所は有名ですが、この他ワシントンの国会議事堂ビジタセンター、マウイ島グランド・ワイレア・リゾート・ホテル&スパのエントランス、さらに、ラスベガスの「ハワイアン・マーケットプレイス」にも大王の像が鎮座しています。
②オアフ島ダウンタウンの 大王像は急遽作り直したもの
1878年に、キャプテン・クックによるハワイ発見100周年を記念してイタリアで作られた像がホノルルに置かれる予定でしたが、運ぶ途中に船が遭難して海に沈んでしまったため、同じ鋳型から新しい像を急いで作り直して1883年に設置したのがダウンタウンの大王像です。
③オリジナル大王像はハワイ島カパアウに
海底に沈んでしまった最初のカメハメハ大王像は、後に引き上げられ、1912年にカメハメハ大王生誕の地、ハワイ島カパアウに置かれました。
④アメリカ本土ではオバマ大統領効果で 目立つ場所に!?
1959年にハワイがアメリカの州になったことを記念して作られた大王像が、1969年にワシントンの国会議事堂にあるナショナル・スタチュアリー・ホールに置かれました。その後、ハワイ州出身のオバマ氏が大統領となったことをきっかけに、大王像はビジターセンターの目立つ場所に移動されました。
⑤大王像のモデルは別人
凛々しく建っている大王像。このモデルとなったのはカメハメハ大王本人ではなく、見た目が美しい男性を選んだとされています。
<カメハメハデーのイベント>
カメハメハデーは、ハワイを統一し、ハワイ王国を築いたカメハメハ大王を祝うために設けられたハワイ州の祝日。1871年にカメハメハ5世によって制定されました。この日は、ホノルル、ハワイ島カパアウ、ヒロの大王像でレイセレブレーションやフローラルパレード、ホオラウレアが開催される他、ハワイ島コナ、マウイ島ラハイナ、カウアイ島リフエでもパレードやホオラウレアが行われる。また、大王像が置かれているワシントンDCアメリカ合衆国議会議事堂ビジターセンターの啓蒙ホールでも簡単な行事が行われます。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/カメハメハ1世、2世、3世、4世、5世、
http://ags.hawaii.gov/kamehameha/、https://commons.wikimedia.org/
※内容、年号には諸説あります