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アーリントン国立墓地

 

5月の最終月曜日はメモリアルデー(Memorial Day)。

日本語では戦没将兵追悼記念日などと呼ばれている アメリカの祝日です。

この日は兵役中に亡くなった人々を追悼する日。

全米で様々な関連イベントが催されると共に、 家族で集まるバーべキューの日でもあります。

南北戦争から始まった伝統を、ここでご紹介します。

 

メモリアルデーの歴史

北部から広まった習慣 

戦死した兵士の墓を飾るという習慣は、南北戦争(1861-1865)で亡くなった北軍兵士を讃えるために始まりました。  

戦没者将兵追悼記念日の公式な発祥地は、ニューヨークのウォータールーで、1866年5月5日に初めての追悼式が執り行われ、それ以降は毎年その日が記念日となりました。ウォータールーの著名人だったジョン・マレー将軍と、その日を毎年祝うことを推奨し、イベントを全国的に広げた主要人物であるジョン・A・ローガン将軍との二人の友情が、祝日を発展させることになった要因といわれています。  

ローガン将軍は、南軍が特別な日に自軍の死者を称える方法に感銘を受け、北軍にも同じような日が必要であると確信しました。伝えられるところによると、ローガン将軍は以下のような式典が追悼記念日に最もふさわしいと語ったといわれています。

「古代ギリシア人は、死者を、特に英雄を月桂樹と花の飾りで称えた。戦没者の追悼記念日を、この地のすべての兵士の墓を飾るための日とするよう命令を出すつもりである。もしできるなら、その日を祝日としたい」  

ローガン将軍は、1866年4月29日、イリノイ州カーボンデールの墓地で行われた市を挙げての記念祝典の主要講演者でした。その日を国民の祝日にするというアイデアが彼の頭に浮かんだのは、このイベントだったといわれています。  

1868年5月5日、北部の退役軍人団体「グランド・アーミー・オブ・ザ・リパブリック」の代表として、ローガン将軍は「デコレーションデー」を全国的に祝うべきであるという声明を発表しました。そしてその年の5月30日に、初めて祝われることとなりました。その日が選ばれたのは、それが戦闘の記念日ではなかったからです。北軍兵士の墓は、この日を祝って飾られました。

 

ジョン・A・ローガン

 

イベントは1868年には27州183墓地で、1869年には336墓地で開催されるようになりました。北部ではすぐさまその日を祝日に制定しました。ミシガン州は1871年に「デコレーションデー」をステイトホリデーに制定。1890年までにその他の北部の州も州の祝日に制定しました。  

1870年には、30万近い北軍の戦死者が、主に南部の戦場に近い73ヶ所の国立墓地に埋葬されていました。最も有名なのは、ペンシルベニア州のゲティスバーグ国立墓地とワシントン近郊のアーリントン国立墓地です。  

メモリアルデーのスピーチは、ベテラン、政治家、司教によって戦争を振り返る機会でもありました。多くの人々が国のために犠牲となったことを悼み、宗教や人種を超えて共に死者を追悼する日になっていきました。

 

南部には独自の追悼イベントがあった

多くのアメリカ連合国の州は、北軍に対して残っていた敵意のため、また、南部に暮らす北軍の復員軍人がきわめて少なかったこともあり、デコレーションデーを祝うことを拒みました。

しかし、1866年当初、南部諸州には独自のメモリアルデーがありました。4月26日から6月中旬までの間にそれぞれの地域で追悼記念イベントが行われていました。  

初代アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイビスの誕生日である6月3日が、1916年に10州で祝日に制定されました。南部では戦後多くの団体が設立され、連合軍兵士の墓を守り、記念式典を行ったり、記念碑を設置するなどの活動が盛んに行われていました。  

最初のメモリアルデーは非常にシンプルなもので、ヴェテランとその家族が墓地を訪れる日でした。1890年代になると、次第に趣を変え、南部の歴史と伝統を表すイベントとなっていきました。  

注目すべき例外はコロンバスで、1866年のデコレーションデーに墓に埋められた北軍及び南軍の犠牲者を、両軍共に追悼しています。

 

ゲティスバーグ国立公園の式典

メモリアルデーのセレモニーとして有名なゲティスバーグ国立公園の式典は、1868年に始まりました。南北戦争終戦50周年記念として、最大の激戦地となったゲティスバーグに、北軍と南軍のベテランが集まり式典が行われました。この日は「ブルー・グレイ・ユニオン」として4日間に渡りパレードやスピーチなどが行われ、南部から初めてホワイトハウス入りを果たしたウィルソン大統領も式典に参加しました。また、アラバマ州の連邦上院議院ジェームズ・へフリンがメインのスピーチを行っています。へフリンはアメリカ史上最も有名な上院議員でもあり、リンカーン追悼式典での演説でも知られています。母の日を祝日に制定したのもこの人物です。

 

 

南北戦争の様子

 

多くの南部諸州は戦没将兵追悼記念日を長い間認めませんでしたが、第一次世界大戦の多くの復員軍人は南部出身であったため、第一次世界大戦以降認めるようになりました。

 

最初はデコレーションデーと呼ばれていたメモリアルデー

最初は「デコレーションデー」と呼ばれることが多かったこの祝日が、初めて「メモリアルデー」と呼ばれたのは1882年でした。しかし、第二次世界大戦の後になるまでずっと一般的にはならず、1967年まで連邦法では公式な呼称としては用いられませんでした。  

1968年6月28日、ハッピーマンデー追加法案 (Uniform Holidays Bill)がアメリカ合衆国議会を通過し、週末を三連休にするために4つの祝日が指定された月曜日に移されました。この祝日とは、ジョージ・ワシントンの誕生日 (発展して大統領の日 Presidents’ Dayとなった)、コロンバスデー、復員軍人の日 (Veterans Day)、メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)です。これによりメモリアルデーはこれまでの5月30日から、5月の最終月曜日に変わりました。  

法律は、連邦レベルで1971年に施行されました。導入時の混乱と州レベルでの反発が多少見られましたが、全50州が数年内に施策を承認しました。(復員軍人の日は結局元の日に戻る)ハワイ州のダニエル・イノウエ上院議員は、第二次世界大戦に兵士として従軍しており、1998年以来メモリアルデーを伝統的な日に戻す方法を繰り返し発表しています。  

皮肉なことに、現在は多くの企業がコロンバスデーや復員軍人の日を休日とすることをやめており、大統領の日を営業日とする数も増えつつあります。

メモリアルデーは、南北戦争に起源を持つため、米国外では祝日ではありません。フランス、ベルギーだけでなくイギリスも、戦争で亡くなった軍人にリメンバランスデー (Remembrance Day 11月11日)を制定しています。リメンバランスデーは第一次世界大戦に起源を持ちます。アメリカではその日をベテランズデー(復員軍人の日)とし、すべての復員軍人に、生死を問わず敬意を払います。  

アイルランドでは、ナショナルデー・オブ・コメモレーション (National Day of Commemoration 7月11日に最も近い日曜日)に、過去の戦争や国際連合の従軍中に亡くなったすべてのアイルランドの人々を追悼しています。  

日本では、8月15日が終戦の日とされ、全国戦没者追悼式が行われています。

 

行事

多くのアメリカ人はメモリアルデーに墓地や記念碑を訪れます。国の追悼時刻はワシントン時間の午後3時。また、地方時間の夜明けから正午まで、星条旗の半旗の掲揚が各地で行われ、ボランティアによって国立墓地の墓の上に星条旗が置かれます。  

追悼に加えて、この日はピクニック、家族の集い、スポーツイベントの機会でもあります。最も長く続いているスポーツイベントは「インディ500」で、1911年以来メモリアルデー前日の日曜日に決勝レースがおこなわれています。  

一部のアメリカ人は、メモリアルデーを非公式な夏の始まり、レイバーデーを非公式な夏の終わりとみなしています。また、自動車事故やその他の安全に関する事故が起こりやすいシーズンが始まることを考慮して、シートベルト着用 (Click it or ticket)キャンペーンがメモリアルデーの週末から始まります。アメリカ空軍の「夏の重要な101日(101 Critical days of summer)」もこの日に始まります。  

一部のアメリカ人はメモリアルデーの週末に、兵士だけではなく亡くなった家族を悼むためにの日とみなしています。メモリアルデーに先立つ日曜日のキリスト教の教会の礼拝式では、過去1年間に亡くなった信者の名前の朗読が行われることもあります。

 

パンチボウル 国立太平洋記念墓地

 

アメリカにはプエルトリコを含む33州に131の国立墓地とモニュメントサイトがあります。パンチボウルの名前で知られる国立太平洋記念墓地は、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦死した兵士が埋葬されている国立墓地です。  

クレーター内の面積は約47万平方メートル。墓地正面には国の歴史建造物に指定されている高さ30フォートの女神像があり、女神像への階段の両脇には戦没者の名前が刻まれています。  

その形がフルーツパンチを入れるボウルの形に似ていることから「パンチボウル」と呼ばれるようになりましたが、ハワイ語では元々「Puowaina」と呼ばれており、意味は「生贄の丘」。その昔は生贄を捧げる祭壇として利用されていたという歴史があるのです。現在もこの名前は墓所に通じる道路Puowaina Driveとして残っています。  

カメハメハ大王の治世には、クレーターの淵に2台の砲台が設置され、特別な来訪者を迎える祝砲を上げる役割を果たしました。 1930年代にはクレーターはハワイのナショナルガードのライフル・レンジとして使用され、第二次大戦中はクレーターの淵に沿ってトンネルが掘られ、ホノルルハーバーやパールハーバーへの砲台が築かれました。  

国立太平洋記念墓地としてオープンしたのは1949年7月19日。最初の埋葬者は5人の兵士でした。現在は軍人だけでなく、1986年にスペースシャトル「チャレンジャー号」の事故で亡くなったハワイ出身の宇宙飛行士エリソン・オニヅカ氏など4万人以上が埋葬されています。

 

Office Hours: Monday thru Friday 8:00 a.m. to 4:30 p.m. Closed federal holidays except Memorial Day. Visitation Hours: The cemetery is open daily. Sept. 30 thru March 1, from 8:00 a.m. until 5:30 p.m. March 2 thru Sept. 29, from 8:00 a.m. until 6:30 p.m. On Memorial Day, the cemetery is open from 7:00 a.m. until 7:00 p.m.(2017年5月29日はホノルル市長主催のメモリアルデーセレモニー開催。関係者のみの出席)

ランタンフローティング・セレモニー(灯篭流し)

5月29日(月)6:30pm アラモアナビーチパーク・マジックアイランド

無料駐車場:ハワイコンベンションセンター(無料送迎3:30pm~)
http://www.lanternfloatinghawaii.com

 

すっかり恒例行事となったメモリアルデーのランタンフローティングセレモニーが、今年もアラモアナビーチパークで開催されます。  

日本の灯篭流しは、先祖を偲ぶお盆の行事として知られていますが、他民族・他宗教の人々が暮らすハワイでは、人種や宗教の枠を超えて亡き人への祈りを捧げる行事として定着してきました。年々参加者は増加し、今年は4万人以上の人出が予想されます。  

灯りをともした3000個以上のランタンが、夕暮れのアラモアナビーチに浮かぶ眺めは荘厳で幻想的。参加者の心をいやし、ひとときの静寂をもたらしてくれます。  

会場ではライブミュージックやフラなどのパフォーマンスも楽しむことができます。ランタンは当日会場でも受け付けています(10:00am〜 なくなり次第終了)。

 

日本のメモリアルデー 8月15日の全国戦没者追悼式

日本では終戦記念日の8月15日に、日本政府の主催で全国戦没者追悼式が毎年行われています。第二次世界大戦の戦没者に対して、宗教的に中立の形で執り行われる式典です。  

第1回の追悼式は1952年5月2日に、新宿御苑で天皇・皇后の臨席のもとで開催されました。第2回は1959年3月28日に実施され、その後1963年以降は毎年8月15日に行われています。追悼の対象は、第二次世界大戦で戦死した旧大日本帝国軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下などで死亡した一般市民約80万人です。式場の正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれます。  

式典開始は午前11時51分、所要時間は約1時間。現在の会場は日本武道館となっています。式典には天皇・皇后、内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、各政党代表、地方公共団体代表が参列します。

 

 

 

参考:http://ja.wikipedia.org/wiki 

http://www.cem.va.gov 

http://www2.va.gov 

http://usmemorialday.org