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鬼、豆、恵方巻き、柊鰯…
節分の由来いろいろ

もうすぐ節分ですね。皆さんご存知の通り、節分は「福は内、鬼は外」と言いながら鬼役の人に向かって豆をまき、まき終わったら拾って自分の歳の数だけ食べるという厄払いの行事です。しかし、なぜ鬼に向かって豆を投げるのか、なぜ炒った大豆を使うのか、いつから行事として定着したのか・・・などなど、謎の多い行事でもあります。そこで今回の特集では、節分の意味や由来、歴史などを紐解いてみたいと思います。

 

節分の起源と豆まき

「節分」と呼ばれる理由

節分は「季節を分ける」という意味で、江戸時代以前は、春夏秋冬の始まりの日の前日「雑節」を指し、立春、立夏、立秋、立冬、それぞれの季節の前日を節分と呼んでいました。明治6年の改暦以前に使われていた旧暦(太陽太陰暦)では、立春は二十四節気の第一節目で、1年の始まりとされていました。旧暦での立春の前日は大晦日にあたり、4つの節分の中でも特に重要な日だったので、江戸時代以降は主に、立春の前日を「節分」と呼ぶようになりました。

 

節分の起源

奈良・平安時代の宮中では、旧暦の大晦日に当たった立春の前日に、その年の厄や邪気を払い、福を呼び込む「追儺(ついな)」という陰陽道の行事が行われていました。この宮中行事が、現在の節分の始まりと言われています。室町時代以降、豆をまいて悪い鬼を追い出す行事に変化し、徐々に一般化していきました。

 

鬼に向かって豆をまく理由

宇多天皇(在位887〜897年)の時代、鞍馬山から鬼が下りて来て京の都を荒らしていました。そこで、僧侶が祈祷をして鬼の穴を封じ、毘沙門天のお告げに従って三石三升(約550リットル)の炒り大豆で鬼の目を打ちつぶした、という逸話が残っています。「魔目(豆)」は「魔滅」に通じるため、節分で豆をまき、無病息災を祈るようになったと言われています。

 

江戸時代の豆まき 葛飾北斎画:北斎漫画より

 

豆が大豆の理由

節分の豆まきに使う豆は、昔は五穀(米、麦、豆、粟、稗)ならどれでもよかったという説が残っています。神道では、五穀には穀物の精霊、穀霊が宿るとされており、大晦日にあたる立春の前日に、五穀をまき、穀霊に悪い霊を払ってもらったのだそうです。五穀の中の豆は大豆を指しますが、五穀の中で1番粒が大きく、投げるとパラパラと音が出ることから、悪霊を払うのに適しているとされました。

 

炒った大豆を使う理由

陰陽五行説の五行「木・火・土・金・水」の中で、鬼と大豆は「金」にあたります。生の大豆をまくと、拾い忘れた大豆から芽が出てしまい、鬼と同じ「金」にあたるものから芽が出て来るということで、縁起が悪いとされていました。そこで「金」の作用を滅すると言われる「火」を大豆に通し、「金」の鬼を封じ込めるという意味で、炒った大豆を使うようになったということです。また、豆まきに炒った大豆を使うと、まいた後拾ってすぐに食べられるため、封じ込めた金を食べて鬼を退治する、といった意味もあります。炒り豆の「炒る」が「射る」に通じることも炒った大豆を使う理由の一つで、火で炒って邪気を払った大豆は「福豆」と呼ばれます。

 

 

年の数だけ豆を食べる理由

節分の豆まきが一般に広まった際、福豆を自分の年の数だけ(または年の数より1つ多く)身体に採り入れ、次の年もより健康で幸せに過ごせるよう願いを込めるようになったことが由来と言われています。

 

恵方巻(えほうまき)とは?

恵方巻とは、節分の日に食べると縁起が良いとされる太巻きのことです。 その年の「恵方」の方角に向かって、太巻き丸ごと一本を無言で食べきるというもので、大阪市を中心に関西地方で盛んな風習です。

 

「恵方巻」と呼ばれるようになったのは、つい最近

「恵方巻」という名前は、1998年(平成10年)にセブン−イレブンが、商品名に「丸かぶり寿司・恵方巻」と名付けたことにより広まったと言われています。それ以前は「丸かぶり寿司」「幸運巻寿司」などと呼ばれていました。

 

年によって方角が変わる「恵方」

恵方は、その年の福を司る陰陽道の神「歳徳神(としとくじん)」のいる方角の事を指します。その方角は、その年の干支(えと)の十干(じっかん)というものによって決まります。十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなるものです。「吉方」「明きの方」とも呼ばれ、どんな物事もその方角に向かって行えば吉となると言われています。2017年の恵方は壬(みずのえ)で、方角は北北西です。

 

『安部晴明簠簋内傳圖解』の歳徳神

 

 

起源

恵方巻きの起源は諸説があり、どれが本当の起源かはよくわかっていないのだそうです。主に言われている説は、以下の通りです。

 

安土桃山時代、豊臣秀吉の家臣だった武将・堀尾吉晴が、節分の前日に海苔巻きのような物を食べて戦に出陣し、大勝利を収めました。このエピソードが元になり、恵方巻きの習慣が始まったという説(しかし、海苔巻きに使う板状の海苔が作られたのは江戸時代なので、この説の根拠は乏しいとされています)。

江戸時代末期、大阪・船場の商人たちが、商売繁盛と厄払いのため、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」を食べる習慣を始めたという説。

江戸時代末期、大阪・船場の花街で「階段の中段に立って巻ずしを丸かぶりすると願い事が叶う」というおまじないが流行ったことが始まりという説。

江戸時代末期〜明治時代のある年、節分の日に大阪近郊の申村(現在の此花区伝法付近)に住む老若男女の集まりがあり、供された巻寿司を食べる際、皆に切り分ける手間を省くため、一本を丸ごとかじったことが始まりとする説。

 

恵方巻きが一般化したのは、いつ頃?

恵方巻きの習慣が一般化し始めたのは、昭和の始め頃と言われています。1932年(昭和7年)、大阪鮓商組合は「巻寿司と福の神 節分の日に丸かぶり」と題したチラシを配布し「幸運巻寿司」を宣伝しました。これは、比較的商売が暇になる2月に売り上げを伸ばすため、という目的もあったのだそうです。このチラシには、以下のような宣伝文句が書かれています。

 

http://www.osaka-sushi.net/

 

「この流行は古くから花柳界にもて囃されてゐました。それが最近一般的に喧傳して年越には必ず豆を年齢の数だけ喰べるやうに巻寿司が喰べられてゐます。 これは節分の日に限るものでその年の惠方に向いて無言で壱本の巻寿司を丸かぶりすれば其年は幸運に恵まれると云ふ事であります。 宣傳せずとも誰云ふともなしに流行って来た事を考へると矢張り一概に迷信とも軽々しく看過すべきではない。 就ては本年の幸運をば是非平素御愛顧蒙る御得意様にも斯様な事も御承知能ひ永續の御繁榮を切に乞ふ譯であります。 一家揃ふて御試食を願ひ本年の幸運をとり逃さぬやうお勧め申します。 昭和七年節分二月四日 惠方西北(亥子ノ間) 幸運巻寿司 一本金拾五銭 大阪鮓商組合」

 

柊鰯(イワシヒイラギ)とは?


柊鰯とは、柊の小枝に焼いたイワシの頭を刺したもので、日本各地で、この柊鰯を門口に飾る風習があります。

 

起源

平安時代の日記文学『土佐日記』には、935(承平5)年、正月に門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺したというくだりがあり、これが柊鰯の起源と言われています。ボラは、成長とともに「オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ」と名前が変わる出世魚で、めでたいものとされていました。柊鰯のボラが、いつ頃、どんな理由でイワシに変わったのかについては、よくわかっていません。

 

意味

日本では、社寺から受けた護符などのお守り「門守(かどもり)」を門口に飾り、厄を家に入れないようにするという風習があります。柊鰯は、この門守の一つです。日本では、上巳の節句(ひな祭り)の桃や端午の節句(子供の日)の菖蒲のように香りの強い植物、松の葉や柊のような尖った植物を、古来から魔除け・厄除けとして用いてきました。  節分の柊鰯には、鬼が苦手とする生ぐさい臭いのイワシと鋭くとがったトゲのある柊を門に飾り、鬼を家に入れないようにするという意味があります。イワシの頭を焼くのは、その匂いで鬼を近寄らせないためで、それでも鬼が中に入ろうとすると、柊のトゲが鬼の目を刺すという意味があるのだそうです。

 

柊鰯のいろいろ

 

柊鰯は、地域によって呼び方に違いがあり、西日本では焼嗅(やいかがし)、やっかがし、やいくさし、などと呼びます。東京近郊の柊鰯には、柊と鰯に加え、豆柄(種子を取り除いた大豆の枝)が添えられます。

 

飾る期間は?

 

柊鰯を飾る期間には地域差があり、小正月の翌日(1月16日)から節分の日まで、節分の日のみ、節分の翌日「立春」の朝まで、節分の日から上巳の節句(ひな祭り)までなど、様々です。「猫に食べられるまで」という地域もあるのだそうです。

 

役目が終わったら…

 

役目を終えた柊鰯は、神社で焚き上げてもらったり、焼いて灰を玄関先に盛ったり、塩で清めて半紙に包んで捨てるなどして処分します。

 

 

節分よもやま話

 

大豆の代わりにピーナッツを殻ごとまく地方もある

合理的な土地柄と言われる北海道や東北、北陸では、まいた後に大豆よりも拾い易く、地面に落ちても中身が汚れないので食べやすいという理由から、炒った大豆の代わりに落花生(殻つきのピーナッツ)をまく家が多いのだそうです。 また、寺社や地域によって、餅やお菓子、みかんなどを投げるところもあります。

 

「福は内、鬼は外」以外のかけ声もある


鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内」または「鬼は内」としています。奈良県吉野町の金峯山寺で行われる節分会では、役行者が鬼を改心させて弟子にした故事があることから「福は内、鬼も内」としています。 鬼塚さん、鬼頭さんなど「鬼」の付く名字の家庭や、「鬼」の付く地名の地域でも「鬼は内」と言う場合が多いようです。例えば、南北朝〜江戸時代に活躍した大名・九鬼(くき)家の領地では、藩主に敬意を表して「鬼は内」としていました。 また、丹羽氏が藩主であった旧二本松藩領内の一部では「鬼は外」が「お丹羽、外」に通じるため、「は」を抜かして「鬼、外」というのだそうです。

 

節分の日に鰯を食べる理由

節分の日、関西では鰯を食べる習慣があります。魚へんに弱いと書く「鰯」の語源は「弱し(よわし)」「卑し(いやし)」と言われています。節分にイワシを食べるのは、臭いがあり、弱く卑しい「鰯」を食べて消化することによって、陰の気を消すという意味があります。

 

鬼がトラのパンツをはいている理由

鬼がトラのパンツをはく訳は、鬼の出入りする方角の「鬼門」に由来します。鬼門の方角は「北東」ですが、北東の方角を十二支にあてはめると「丑」と「寅」の方角にあたります。よって、牛(丑、うし)と虎(寅、とら)のイメージが鬼に繋がり、鬼の牛の角を持ち、虎革のパンツをはいている姿が定着したのです。

 

鬼は、色ごとに意味が違う

【赤鬼】貪欲(とんよく)を象徴し、手に金棒を持っています。貪欲は、欲望や渇望、全ての悪心の象徴とされ、ついそれを持ってしまう自分に豆をぶつけることで、自分の中の悪心が取り除かれるとされています。

【青鬼】嗔恚(しんに=憎しみ・怒り)を象徴し、手に刺股(さすまた)を持っています。瞋恚にとらわれ、徳を積むことを忘れがちな自分自身に豆をぶつけることで、福相・福徳に恵まれるとされています。

【黄鬼(白鬼)】掉挙悪作(じょうこおさ)を象徴し、手に両刀鋸(のこぎり)を持っています。心の浮動や後悔のことで、豆をぶつけることで、自己中心的な甘い考えを取り除き、公平な判断が出来る心になるとされています。

【緑鬼】惛沈睡眠(こんちんすいみん)を象徴し、手に薙刀(なぎなた)を持っています。眠気や倦怠、不健康のことで、自分の不摂生を反省し、健康に保つことを言い聞かせながら、豆をぶつけるとされています。

【黒鬼】疑(ぎ)を象徴し、手に斧(おの)を持っています。疑いの心や愚痴の象徴ことで、豆をぶつけることで、卑しい気持ちを追い払い、平穏を願うという意味があります。

 

 

参考:NAVERまとめ- matome.naver.jp / Wikipedia – wikipedia.org / 違いがわかる事典 – chigai-allguide.com